東藝術倶楽部瓦版 20200323:【江戸の川その64】日本橋の表玄関-「東堀留川」

おはようございます。欧州での新型コロナウイルス感染の拡大が止まりません。世界的な脅威はそればかりではありません。アフリカ東部で発生したバッタの大群がアジアにも押し寄せてきている蝗害による被害も、今後の世界的な食糧需給に大きな影響を及ぼす可能性があります。各地で多発する地震や火山噴火、異常気象。この地球でいったい何が起きているのでしょうか?

 

さて、本日は「東堀留川(ひがしほりどめがわ)」について紹介してみましょう。東堀留川は、日本橋川から小網町(中央区日本橋小網町)から北側に入り込む入堀で、堀江町(日本橋小舟町)に沿って堀留町二丁目地先(日本橋堀留町)で留まっていました。この西側には「西堀留川(にしほりどめがわ)」がありました。

 

この東堀留川の堀留とは、川を上流から埋めていき、下流部を埋め残す形で作られた水路です。江戸時代以前は、東堀留川及び西堀留川と日本橋川の合流付近は海岸線で、一説によると不忍池やお玉が池と流れてくる石神井川の下流部だったと考えられています。江戸幕府の河川改修により、この河口付近から日本橋川の原型となる「道三堀(どうさんぼり)」が江戸城に向かって掘り進められ、道三堀の先に陸地を造成、その上流部には神田川が開削されました。これにより、不忍池から流れてくる石神井川の流路が断たれ、下流部を掘り残して堀留とする一方、上流部は開削した神田川に付け替えたというわけです。

 

東西に掘り残された堀留川は、船荷の一大集散地として賑わいを見せていたようです。堀には船着場が設けられ、米河岸、塩河岸、小舟河岸、西方河岸、東方河岸、末広河岸など、日本橋の問屋街への表玄関として繁盛していました。東堀留川には、煙草河岸、東方河岸、西方河岸がありました。この数百メートルという短い堀にも、日本橋川から思案橋(しあんばし)、親仁橋(おやじばし)、萬橋(よろずばし)の3本の橋が架かっていました。

こうして賑わいを見せた東堀留川ですが、現在の江戸桜通りより上流は、昭和3年(1928年)に関東大震災のガレキで埋め立てられ、その後、昭和23年(1948年)に戦後の残土処理のために埋め立てが始まり、翌昭和24年(1949年)にその姿を消しました。現在、東堀留川の跡の一部は堀留児童公園になっています。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年3月23日 10:24に書いたブログ記事です。

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