東藝術倶楽部瓦版 20200324:【江戸の川その65】浮世絵版元・伊場仙も近くにあった「西堀留川」

おはようございます。昨日、大手電機メーカーであるH製作所の中国総代表が交代のあいさつで来会されました。帰国後、14日間の喪が明けた(コロナ対策の自宅待機)とのことで、後任を連れての挨拶だったのですが、メーカーは商社や銀行と違い、工場という現場があるので、在宅でネットでのワークができないので、とにかく制限がある中で日中間を頻繁に行き来しなければなりません。オフィスビルや自宅マンションはもちろんのこと、コンビニや銀行のATMに入るにしても検温され、体温が37.3℃以上あると中国人・外国人に限らず即隔離、ということで、人権などという概念がない中国ならではの厳しい隔離政策ができたからこそ、ある程度の封じ込めができたということです。ですから、中国でコロナ感染が収束に向かっているという発表は正しいだろうとのことでした。そう言われてみると、中国を知っている人であれば、何となく納得してしまうでしょう。もちろん、日本や欧米ではできません。できるのは中国と北朝鮮だけでしょう。非常に生々しい話を伺うことができました。

 

さて、本日は「西堀留川(にしほりどめがわ)」について紹介したいと思います。前回紹介した東堀留川と同様に、西堀留川も石神井川支流を上流から埋め立て、河口部を埋め残して作られた水路で、東堀留川の西側に平行して設置されていました。

 

日本橋川に架かる江戸橋の東北角、本船町(中央区日本橋本町)と小網町(日本橋小網町)の間から北西に向かい、堀留町(日本橋本町)の手前で西に折れて、室町(日本橋本町)で堀留となっていました。堀留の先には「浮世小路」と呼ばれる小道があり、その先には通町筋(中央通り)に通じていました。この堀の北側には本町通り(旧日光街道)が平行して走っていました。

 

堀留町から西に折れて堀留までの区間は「伊勢堀(いせぼり)」又は「伊勢町堀(いせちょうぼり)」とも呼ばれ、日本橋地域のほぼ中央に位置していたことから、日本橋界隈にとって重要な物流拠点であったことが分かります。日本橋川との合流地点から北に向かう堀の西岸には米河岸、東岸には小舟河岸、西側に折れた伊勢堀の北側には伊勢町河岸と北塩河岸、南側には南塩河岸がありました。小舟河岸蔵の東には浮世絵の版元である「伊場仙」が大きな屋敷を抱えていました。伊場仙は現在でもその付近で扇子と団扇の専門店として小さな店を構えています。

 西堀留川も数百メートルの短い水路で、伊勢堀の分だけ東堀留川よりも長くなっています。架けられていた橋は、河口側から荒布橋(あらめばし)、中之橋(なかのはし)、西に折れて道浄橋(どうじょうばし)、雲母橋(きららばし/きらずばし)の4つです。西端の塩河岸跡地には、現在は復元された福徳神社が建っています。

 

この西堀留川も、伊勢堀が明治19年(1886年)に埋め立てられ、その後関東大震災で生じたガレキ処理のために、残りの日本橋川に繋がる部分も昭和3年(1928年)に埋め立てられ、水路は消滅しました。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年3月24日 08:03に書いたブログ記事です。

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