東藝術倶楽部瓦版 20200325:【江戸の川その66】行徳からの塩の受け入れ-「稲荷堀」

おはようございます。東京オリンピック・パラリンピックの延期が決まりました。東京でのコロナウイルス感染の拡大を考えれば、そう考えざるを得ません。連日の株価の乱高下、移動の制限やイベントの自粛、デマによる買い占めなど、世界全体が清濁混合の情報に翻弄され、一体何が起きているのかが分からなくなっています。意図的か意図的でないにせよ、これこそまさにこれまでの地球人が自然に対して行ってきたことの総決算ではないかと思えます。自然に利することをやってくれば、その見返りも己の「利」となって返ってくるでしょうし、自然を破壊することをすれば、その見返りも己の「破壊」につながります。「因縁果報」、今こそこの言葉を噛みしめて自らの行動を見直すことが肝要ではなかいと思います。もちろん、間に合えばですが...。明日と明後日は所用により、瓦版は休刊とさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「稲荷堀(とうかんぼり)」について紹介しようと思います。稲荷堀は、箱崎川から蛎殻町(中央区日本橋蛎殻町)と小網町(日本橋小網町)の間で分かれて北西方向に流れ、東堀留川に通じていた水路です。

 

蛎殻町や小網町一帯は、この堀を利用して各種の荷物が船で運ばれていたことから問屋が多く集まっていました。特に瀬戸物問屋が多かったようです。

 

箱崎川からの堀の出入口にあった行徳河岸は、寛永9年(1632年)以来、この堀と下総国行徳村とを結ぶ場所として、行徳からの塩の受け入れ地となっていました。また、江戸から下総への唯一の交通路として多くの船が出入する賑わいをみせていました。

稲荷の名称については、安藤対馬守の屋敷地の西方に稲荷(いなり)神社があったことから、稲荷の音読「とうかん」としたとされています。また、土居甲斐守屋敷前を流れていたので、「土居堀(どいぼり)」とも呼ばれていました。この堀に沿って播磨国姫路藩酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷があり、明治維新の後にその屋敷の一部が西郷隆盛の屋敷になりました。現在、堀の跡には「とおかん通り」という道路になっており、日本橋小学校の前身である「東華(とうか)小学校」の校名も「稲荷(とうか)」にちなんで名付けられたということです。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年3月25日 07:58に書いたブログ記事です。

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