おはようございます。本日、やっとのことで東京や大阪など7都府県に緊急事態宣言が出され、明日8日午前0時から効力が発生することになりました。とはいっても何ら強制力を持つものではなく、これまで日本医師会を含む各方面から迅速な発表を望まれていたにもかかわらず、何故こうももったいぶって発表が遅くなったのか、まったく理解に苦しむところです。私自身、仮に感染したとしても持ち堪えることができるように、抵抗力を落とさないよう体調管理には気を付けていますが、自分が感染源になることを恐れて、普段からマスクの着用や三密の場所には近づかないよう気を配っています。緊急事態宣言の発令が遅れたこともあり、我が職場でもやっとのことで、在宅勤務の方針が示されました。今のところ役職員に感染者が確認されたわけではありませんが、先週から我が調査部では、感染リスク軽減のために二班に分けてのシフト出勤体制をとっています。明日から瓦版の更新も、しばらくはお休みさせていただきます。
さて、本日は「楓川(かえでがわ)」について紹介したいと思います。楓川は、かつて現在の東京都中央区を流れていた川で、日本橋川から江戸橋のすぐ下流で南側に分流し、京橋川、桜川、三十間堀川の分岐点までの約1.2キロメートルの区間を指します。今は埋め立てられ首都高速環状線が走っていて、楓川の入口と出口はちょうど江戸橋ジャンクションと京橋ジャンクションとなっています。
徳川家康が天正10年(1590年)に江戸入府した当時は、楓川の流路は江戸前島の東側の海岸線で、水路を残して沖合を埋め立てることで形成された川であると言われています。沖合の埋め立てが始まる以前の慶長年間(1596年~1615年)に、江戸前島の東岸から内陸側に向かって10本の入り堀が掘られました。これらの入り堀は、主に江戸城造営のための石垣の荷下ろし場として利用されます。その後、江戸城の築城が終わると入り堀の役割が終わり、徐々に埋め立てられていきます。そして、前島の対岸を埋め立てる際に水路として残されたのが楓川でした。
江戸時代に水路が生活物資を運ぶ重要な交通網であったことは、これまでも頻繁に紹介してきたことですが、特に日本橋川から江戸市中に物資を運びやすい楓川周辺には商人や職人が多く住んでいました。川岸には楓河岸や木材河岸と呼ばれる河岸、武家屋敷に隣接する蔵が多く建ち並び、近代に至るまで経済の中心として栄えていました。
楓川には、北から海賊橋、新場橋、越中殿橋、松幡橋、弾正橋の5つの橋が架けられていました。昭和35年(1960年)から埋め立てが始まった楓川ですが、楓川底は首都高環状線として整備され、新場橋、松幡橋、弾正橋などの橋も残されています。