2020年4月アーカイブ

おはようございます。本日、やっとのことで東京や大阪など7都府県に緊急事態宣言が出され、明日8日午前0時から効力が発生することになりました。とはいっても何ら強制力を持つものではなく、これまで日本医師会を含む各方面から迅速な発表を望まれていたにもかかわらず、何故こうももったいぶって発表が遅くなったのか、まったく理解に苦しむところです。私自身、仮に感染したとしても持ち堪えることができるように、抵抗力を落とさないよう体調管理には気を付けていますが、自分が感染源になることを恐れて、普段からマスクの着用や三密の場所には近づかないよう気を配っています。緊急事態宣言の発令が遅れたこともあり、我が職場でもやっとのことで、在宅勤務の方針が示されました。今のところ役職員に感染者が確認されたわけではありませんが、先週から我が調査部では、感染リスク軽減のために二班に分けてのシフト出勤体制をとっています。明日から瓦版の更新も、しばらくはお休みさせていただきます。

 

さて、本日は「楓川(かえでがわ)」について紹介したいと思います。楓川は、かつて現在の東京都中央区を流れていた川で、日本橋川から江戸橋のすぐ下流で南側に分流し、京橋川、桜川、三十間堀川の分岐点までの約1.2キロメートルの区間を指します。今は埋め立てられ首都高速環状線が走っていて、楓川の入口と出口はちょうど江戸橋ジャンクションと京橋ジャンクションとなっています。

 

徳川家康が天正10年(1590年)に江戸入府した当時は、楓川の流路は江戸前島の東側の海岸線で、水路を残して沖合を埋め立てることで形成された川であると言われています。沖合の埋め立てが始まる以前の慶長年間(1596年~1615年)に、江戸前島の東岸から内陸側に向かって10本の入り堀が掘られました。これらの入り堀は、主に江戸城造営のための石垣の荷下ろし場として利用されます。その後、江戸城の築城が終わると入り堀の役割が終わり、徐々に埋め立てられていきます。そして、前島の対岸を埋め立てる際に水路として残されたのが楓川でした。

 

江戸時代に水路が生活物資を運ぶ重要な交通網であったことは、これまでも頻繁に紹介してきたことですが、特に日本橋川から江戸市中に物資を運びやすい楓川周辺には商人や職人が多く住んでいました。川岸には楓河岸や木材河岸と呼ばれる河岸、武家屋敷に隣接する蔵が多く建ち並び、近代に至るまで経済の中心として栄えていました。

楓川には、北から海賊橋、新場橋、越中殿橋、松幡橋、弾正橋の5つの橋が架けられていました。昭和35年(1960年)から埋め立てが始まった楓川ですが、楓川底は首都高環状線として整備され、新場橋、松幡橋、弾正橋などの橋も残されています。

おはようございます。東京都の1日の感染確認者が遂に100人を超え、全国的にも感染拡大が止まりません。日本国政府の「如何に被害を小さく見せるか政策」により、実際のウイルス蔓延の状況が把握されておらず、実はすでにオーバーシュートになっているのかも知れませんが、誰もその実態を知る由もありません。報道によると、政府は本日にも緊急事態宣言の「準備発表」をするとか...(何じゃそれ!)。「これから緊急事態宣言を発表する準備に入ります」という発表なのでしょうか? それは緊急でも何でもありません。

 

さて、本日は「越前堀(えちぜんぼり)」について紹介したいと思います。越前堀は、前回、前々回とご紹介した霊岸島(中央区新川)に、かつて存在していた水路で、地名としても使われていたことがあります。

 

越前堀は、隅田川から霊岸島銀町(れいがんじましろがねちょう)と越前堀の間で西側に流れ込み、霊岸島銀町の中で南に折れ、更に東湊町で東に向かい、新船松町地先で隅田川に合流するルートでした。つまり、霊岸島の一部の地域をコの字型にめぐらされた水路であり、その地域にとっては入堀を形成していたのです。

寛永11年(1634年)、越前福井藩・松平越前守が蔵屋敷としてこの地を拝領します。そのため、この三方にめぐらされた堀ということで、越前堀と呼ばれていました。江戸時代、隅田川の河口に面していたこともあり、越前堀沿いには東湊河岸があり、魚河岸や廻船問屋などで賑わっていたようです。越前堀の護岸は石積みで、今でも建設工事や遺跡調査の際に、越前堀のものとみられる石垣に使われた石が出土することもあるそうです。

 

この越前堀ですが、明治以降は倉庫が建ち並び、西洋型蒸気帆前船が常時停泊していたと言われています。明治33年(1900年)までにはほとんどが埋め立てられ、今はその跡をみることはできません。現在、越前堀の一部が越前堀児童公園として整備されています。

おはようございます。コロナウイルス感染の拡大が止まらない中、いつ政府が緊急事態宣言を出すのかが気になっているところですが、一昨日、政府は国民に対し一世帯当たり2枚の布マスクを配布するとの方針を示しました。小学校の生徒会でも思い付かないような奇抜な発想を、日本国の英知が集結されている(とされている)はずの日本国政府がいとも簡単に決めたとも思えるはずもなく、この方針が出された裏には必ず何かあると思ってしまう私の猜疑心は異常なのでしょうか? 3日ほど前に、緊急事態宣言の発表が4月1日以降出されるのではないかとの噂が広まりましたが、政府はそんな議論もされていないと否定。昨日も東京では過去最多の97人、全国でも277人の感染が確認されています。緊急事態宣言が出されるのは必至ではないかと思いつつ、いつ、どのような形で出されるのかが大きな不安材料となっています。

 

さて、本日は「亀島川(かめしまがわ)」ついて紹介しようと思います。亀島川は東京都中央区を流れる荒川水系の一級河川です。中央区にある霊岸橋で日本橋川から南に分流し、亀島橋を過ぎた後に南東に折れて、隅田川の中央大橋の下流で隅田川に合流しています。現在の中央区新川一帯を日本橋川(北側)や隅田川(東側)とともに川で囲った形となっています。前回紹介した新川は、この亀島川から分流しています。

 

全長は約1キロメートルと短く、霊岸橋から亀島橋までの北岸に亀島河岸、東南側に折れた西南側に日比谷河岸、北東側に将監河岸、隅田川との合流地点の西岸に湊河岸がありました。現在は5つの橋(霊岸橋、新亀島橋、亀島橋、高橋、南高橋)が架かっていますが、江戸時代には日本橋川からの分岐点に霊岸橋、西南に折れ曲がる地点に亀島橋、隅田川との合流地点の少し手前に高橋(たかばし)の3本の橋が設置されていました。

 

亀島川の名前の由来は、この辺りに瓶(かめ)を売る商人が多くいたという説、かつては亀の形をした小島があったという説がありますが、そのどちらかははっきりしていません。亀島川に囲まれた地域は、現在は中央区新川となっていますが、江戸時代は霊岸島と呼ばれていました。これは、寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人(おうよれいがんしょうにん)によって開山された霊巌寺(れいがんじ)があったからだと言われています。霊巌寺は、明暦の大火で焼失後、深川(江東区白川)に移転しています。

亀島川の川沿いにあった将監河岸には御船手奉行所がありました。大坂夏の陣〔慶長19年(1614年)〕で水軍を率いて大坂湾を押さえた向井将監忠勝は、その功績によって御船手頭を命じられ、以降、向井家は代々「将監」を名乗り、この職を世襲し、江戸湾の警備や幕府水軍の維持を受け持つことになりました。

 

現在、この亀島川には上流の日本橋川との分岐点には日本橋水門、下流の隅田川との合流地点には亀島川水門の二つの水門があります。これは、隅田川との合流地点が海に近いため、高潮の発生時に川が逆流して発生する洪水を防止するためです。

おはようございます。コロナウイルス感染拡大がいろいろなところで影響を及ぼしています。石油業界では、経済の停滞による石油需要の大幅な落ち込みとサウジアラビアやロシア等産油国の大増産により原油価格が大暴落。世界中の原油貯蔵タンクがほぼ満杯の状態で、割高なタンカーによる海上備蓄もギリギリのレベルまで積み増しが行われているとのことです。米国テキサス州の零細油田群では、採掘した原油をパイプラインで輸送することができず、デッドストック(非商品在庫)寸前の状態にあり、このままだと採掘業者も稼働停止に追い込まれる事態に直面しているようです。これにより、原油価格の高値推移で生産を続けてきた米国のシェール業者は需要減退とコストが見合わないことから、相次いで倒産することになります。世界を揺るがす未曽有のコロナウイルスによるパンデミック危機は、世界経済の仕組みそのものを変えてしまうかもしれません。

(昨日の瓦版のタイトル番号に齟齬があり失礼しました。本日の瓦版を【江戸の川その68】とし、昨日の番号はそのままとしたいと思います。次回は【その70】でお届けします。)

 

さて、本日は「道三堀(どうさんぼり)」について紹介してみようと思います。道三堀は、江戸城の和田倉門から平川(日本橋川)河口の呉服橋門まで開削された運河で、その先は日本橋川を通じて江戸湊まで続いています。

 

道三堀は、徳川家康が江戸入府して最初に手を付けた水運事業の一つとされています。天正18年(1590年)、江戸城普請のための物資を運ぶ船入り堀とするために、家康は開削を命じます。現在の皇居東にある和田倉門から辰の口(現在のパレスホテル辺り)、そして現在の大手町駅前交差点を通り、呉服橋交差点と常盤橋の間辺りで平川に合流させました。その開削で出た土砂は埋め立てに利用されました。

 

開削当時、道三堀の両岸には四日市町(定期市)、木材町、舟町、柳町(遊郭)などが設置され賑わいを見せたと言われています。日比谷入江が埋め立てられた後も、江戸城ヘの物資の運搬路として活用されていました。道三堀の名の由来は、道三堀の南岸に江戸幕府の待医・二代目曲直瀬道三(まなせどうさん)の屋敷があったからだと言われています。

その距離わずか約1キロメートルですが、大手町駅前交差点のやや東側に道三橋、平川との合流地点に銭瓶橋(ぜにがめばし)が架けられていました。銭瓶橋の名の由来は、道三堀開削の際に銭の入った瓶が掘り出されたという説、この辺りで永楽通宝の両替をしていた(銭替)という説、夜中に江戸城の奥女中が通行切手を持たずに袖の下を使って道三堀から抜け出た(銭買)という説など、諸説あります。

 

この道三堀も明治43年(1909年)には埋め立てられ、今はその影をみることもできません。

おはようございます。昨日は急用により瓦版を更新できず、恐縮でした。タレントの志村けんさんがコロナウイルス感染による肺炎で亡くなりました。衝撃的なニュースでした。長年タバコ(最近は止めていたようですが)やお酒を好み、これらが危険性を高めているとの報告もあります。そんな中、今日から健康増進法が施行され、原則として飲食店、ホテル、オフィスなど室内での喫煙が禁止され、違反者には罰則も科せられます。人々の良心や他人・公共を気遣うマナーの精神に任せられず、罰則一辺倒の世の中になっていく寂しさを感じざるを得ません。

 

さて、本日は「新川(しんかわ)」について紹介したいと思います。新川は、「亀島川(かめじまがわ)」の霊岸町と福冨町との間(中央区新川)で分かれて東側に流れ、北新堀大川端町地先(中央区新川)で隅田川に合流した堀割です。亀島川は、箱崎川が日本橋川に流れ込む先の西南岸に架けられていた霊岸橋(れいがんばし)から南側に流れる川です。新川の北側には、亀島川との分流地点から隅田川にかけて日本橋川が並行して流れていました。

 

元々新川の流れていた辺りは、平川の派川であった八丁堀川の河口に面した隅田川の中洲で、「江戸中島」と呼ばれていました。江戸時代初期、徳川家康による江戸普請によって江戸中島が埋め立てなどで整備されます。その際、霊岸橋の南側の亀島川から江戸中島を東側に水を流して永代橋の南側で隅田川に合流させる堀を開削しました。これが新川です。この新川の北側を箱崎島(中央区日本橋箱崎)、南側を霊岸島(中央区新川)と呼びました。

新川の開削は、万治3年(1660年)に豪商の河村瑞賢によって行われたとも言われていますが、実際のところは明らかではありません。ただ、貞享年間(1684年~1688年)に瑞賢の屋敷が新川辺りにあったことは確認されています。

 

江戸時代、新川沿いは北新河岸、南新河岸が設けられ、上方から送られてくる所謂「下り酒」を取り扱う問屋商人が集まっており、新川一帯は酒問屋の街として賑わいをみせていました。また、新川には一ノ橋、新川橋(二ノ橋)、三ノ橋が架けられていました。

 

この新川も、戦災残土の処理のために、昭和23年(1948年)から埋め立てが開始され、翌昭和24年(1949年)には消滅します。現在、堀跡は道路となっており、新川という地名が残っています。

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