東藝術倶楽部瓦版 20200401:【江戸の川その69】酒問屋で賑わう「新川」

おはようございます。昨日は急用により瓦版を更新できず、恐縮でした。タレントの志村けんさんがコロナウイルス感染による肺炎で亡くなりました。衝撃的なニュースでした。長年タバコ(最近は止めていたようですが)やお酒を好み、これらが危険性を高めているとの報告もあります。そんな中、今日から健康増進法が施行され、原則として飲食店、ホテル、オフィスなど室内での喫煙が禁止され、違反者には罰則も科せられます。人々の良心や他人・公共を気遣うマナーの精神に任せられず、罰則一辺倒の世の中になっていく寂しさを感じざるを得ません。

 

さて、本日は「新川(しんかわ)」について紹介したいと思います。新川は、「亀島川(かめじまがわ)」の霊岸町と福冨町との間(中央区新川)で分かれて東側に流れ、北新堀大川端町地先(中央区新川)で隅田川に合流した堀割です。亀島川は、箱崎川が日本橋川に流れ込む先の西南岸に架けられていた霊岸橋(れいがんばし)から南側に流れる川です。新川の北側には、亀島川との分流地点から隅田川にかけて日本橋川が並行して流れていました。

 

元々新川の流れていた辺りは、平川の派川であった八丁堀川の河口に面した隅田川の中洲で、「江戸中島」と呼ばれていました。江戸時代初期、徳川家康による江戸普請によって江戸中島が埋め立てなどで整備されます。その際、霊岸橋の南側の亀島川から江戸中島を東側に水を流して永代橋の南側で隅田川に合流させる堀を開削しました。これが新川です。この新川の北側を箱崎島(中央区日本橋箱崎)、南側を霊岸島(中央区新川)と呼びました。

新川の開削は、万治3年(1660年)に豪商の河村瑞賢によって行われたとも言われていますが、実際のところは明らかではありません。ただ、貞享年間(1684年~1688年)に瑞賢の屋敷が新川辺りにあったことは確認されています。

 

江戸時代、新川沿いは北新河岸、南新河岸が設けられ、上方から送られてくる所謂「下り酒」を取り扱う問屋商人が集まっており、新川一帯は酒問屋の街として賑わいをみせていました。また、新川には一ノ橋、新川橋(二ノ橋)、三ノ橋が架けられていました。

 

この新川も、戦災残土の処理のために、昭和23年(1948年)から埋め立てが開始され、翌昭和24年(1949年)には消滅します。現在、堀跡は道路となっており、新川という地名が残っています。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年4月 1日 07:57に書いたブログ記事です。

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