東藝術倶楽部瓦版 20200403:【江戸の川その70】江戸湾の警備と幕府水軍の拠点-「亀島川」

おはようございます。コロナウイルス感染の拡大が止まらない中、いつ政府が緊急事態宣言を出すのかが気になっているところですが、一昨日、政府は国民に対し一世帯当たり2枚の布マスクを配布するとの方針を示しました。小学校の生徒会でも思い付かないような奇抜な発想を、日本国の英知が集結されている(とされている)はずの日本国政府がいとも簡単に決めたとも思えるはずもなく、この方針が出された裏には必ず何かあると思ってしまう私の猜疑心は異常なのでしょうか? 3日ほど前に、緊急事態宣言の発表が4月1日以降出されるのではないかとの噂が広まりましたが、政府はそんな議論もされていないと否定。昨日も東京では過去最多の97人、全国でも277人の感染が確認されています。緊急事態宣言が出されるのは必至ではないかと思いつつ、いつ、どのような形で出されるのかが大きな不安材料となっています。

 

さて、本日は「亀島川(かめしまがわ)」ついて紹介しようと思います。亀島川は東京都中央区を流れる荒川水系の一級河川です。中央区にある霊岸橋で日本橋川から南に分流し、亀島橋を過ぎた後に南東に折れて、隅田川の中央大橋の下流で隅田川に合流しています。現在の中央区新川一帯を日本橋川(北側)や隅田川(東側)とともに川で囲った形となっています。前回紹介した新川は、この亀島川から分流しています。

 

全長は約1キロメートルと短く、霊岸橋から亀島橋までの北岸に亀島河岸、東南側に折れた西南側に日比谷河岸、北東側に将監河岸、隅田川との合流地点の西岸に湊河岸がありました。現在は5つの橋(霊岸橋、新亀島橋、亀島橋、高橋、南高橋)が架かっていますが、江戸時代には日本橋川からの分岐点に霊岸橋、西南に折れ曲がる地点に亀島橋、隅田川との合流地点の少し手前に高橋(たかばし)の3本の橋が設置されていました。

 

亀島川の名前の由来は、この辺りに瓶(かめ)を売る商人が多くいたという説、かつては亀の形をした小島があったという説がありますが、そのどちらかははっきりしていません。亀島川に囲まれた地域は、現在は中央区新川となっていますが、江戸時代は霊岸島と呼ばれていました。これは、寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人(おうよれいがんしょうにん)によって開山された霊巌寺(れいがんじ)があったからだと言われています。霊巌寺は、明暦の大火で焼失後、深川(江東区白川)に移転しています。

亀島川の川沿いにあった将監河岸には御船手奉行所がありました。大坂夏の陣〔慶長19年(1614年)〕で水軍を率いて大坂湾を押さえた向井将監忠勝は、その功績によって御船手頭を命じられ、以降、向井家は代々「将監」を名乗り、この職を世襲し、江戸湾の警備や幕府水軍の維持を受け持つことになりました。

 

現在、この亀島川には上流の日本橋川との分岐点には日本橋水門、下流の隅田川との合流地点には亀島川水門の二つの水門があります。これは、隅田川との合流地点が海に近いため、高潮の発生時に川が逆流して発生する洪水を防止するためです。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年4月 3日 07:44に書いたブログ記事です。

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