おはようございます。東京都の1日の感染確認者が遂に100人を超え、全国的にも感染拡大が止まりません。日本国政府の「如何に被害を小さく見せるか政策」により、実際のウイルス蔓延の状況が把握されておらず、実はすでにオーバーシュートになっているのかも知れませんが、誰もその実態を知る由もありません。報道によると、政府は本日にも緊急事態宣言の「準備発表」をするとか...(何じゃそれ!)。「これから緊急事態宣言を発表する準備に入ります」という発表なのでしょうか? それは緊急でも何でもありません。
さて、本日は「越前堀(えちぜんぼり)」について紹介したいと思います。越前堀は、前回、前々回とご紹介した霊岸島(中央区新川)に、かつて存在していた水路で、地名としても使われていたことがあります。
越前堀は、隅田川から霊岸島銀町(れいがんじましろがねちょう)と越前堀の間で西側に流れ込み、霊岸島銀町の中で南に折れ、更に東湊町で東に向かい、新船松町地先で隅田川に合流するルートでした。つまり、霊岸島の一部の地域をコの字型にめぐらされた水路であり、その地域にとっては入堀を形成していたのです。
寛永11年(1634年)、越前福井藩・松平越前守が蔵屋敷としてこの地を拝領します。そのため、この三方にめぐらされた堀ということで、越前堀と呼ばれていました。江戸時代、隅田川の河口に面していたこともあり、越前堀沿いには東湊河岸があり、魚河岸や廻船問屋などで賑わっていたようです。越前堀の護岸は石積みで、今でも建設工事や遺跡調査の際に、越前堀のものとみられる石垣に使われた石が出土することもあるそうです。
この越前堀ですが、明治以降は倉庫が建ち並び、西洋型蒸気帆前船が常時停泊していたと言われています。明治33年(1900年)までにはほとんどが埋め立てられ、今はその跡をみることはできません。現在、越前堀の一部が越前堀児童公園として整備されています。
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