2020年6月アーカイブ

おはようございます。今朝は朝から日差しが強く感じますが、天気予報では気温は30℃までいかないようです。職場ではコロナ対策で時間短縮勤務が続き、座席も一席空け、会議室なども利用して密を避ける工夫をしています。東京でのコロナ感染の確認者が増加するなか、こうした措置も明日で終わり、7月1日からは通常出勤体制に戻ります。

 

さて、本日は前回紹介した目黒川の支流の一つである「北沢川(きたざわがわ)」について紹介しようと思います。北沢川は、かつては東京都世田谷区を流れる二級河川でしたが、現在は全面的に暗渠化され、下水道に転用されています。

 

水源は上北沢村(世田谷区上北沢の都立松沢病院付近)とされ、これに北方を流れる玉川上水からの分水を引き込んで南東に向かい、桜上水、豪徳寺、代田などを通って池尻大橋駅の西側で烏山川と合流し、目黒川になります。流路北側には「森巌寺川(しんがんじがわ)」や「だいだらぼっち川」などの支流がありましたが、いずれも今は暗渠となっています。

 

北沢川は、もともと流量の少ない河川でしたが、万治元年(1658年)に玉川上水からの分水である「北沢分水」を通じた通水が認められ、同上水から北沢川の水源地付近まで導水されるようになります。流量が増えた北沢川は、それ以降「北沢用水」として周辺の田畑を潤してきました。これにより、下北沢村の開拓も可能となったわけです。

昭和に入り、この地域も都市化の波が押し寄せるとともに水質が次第に悪化してきます。1970年代から80年代にかけてほぼ全域が暗渠化され、現在は「北沢幹線」と呼ばれる下水道として利用されています。平成になると、上流側の赤堤から下流部分の池尻までの約4.3キロメートルにわたって、暗渠の地上部分に「北沢川緑道」が設置されます。灌木や雑木類が植えられ、四季折々の花が咲く緑の遊歩道として親しまれています。

おはようございます。コロナ騒ぎで慌ただしく始まった今年も、気が付いてみるともう半分が過ぎようとしています。その間、何かが大きく進んだという感覚はないのですが、テレワークや時差出勤など、知らず知らずのうちに働き方が変わりつつあります。それでも昔のやり方に拘り、時代の流れに取り残される人たちも少なくありません。もちろん、脈々と続いてきている良きものは維持していかなければならないし、復活させた方が世のため人のためになるものも少なくありません。物事の本質を見極め、取捨選択する良い機会になったのではないかと思う次第です。コロナによる混乱が本格的に表面化してくるのはこれからです。

 

さて、本日は「目黒川(めぐろがわ)」について紹介しようと思います。目黒川は東京都世田谷区、目黒区、品川区を流れて東京湾に注ぐ、目黒川二級水系の本流にあたる二級河川です。目黒川の延長は7.82キロメートル、流域面積は45.8平方キロメートルです。

 

武蔵野台地を水源とする目黒川は、世田谷区三宿の東仲橋付近で「北沢川(きたざわがわ)」と「烏山川(からすやまがわ)」が合流するところから始まります。そこから南東に流れて、品川区の天王洲アイル駅付近で東京湾に注ぎ込みます。北沢川と烏山川の合流地点から国道246号の大橋までの600メートル強は暗渠化、目黒川緑道が整備されており、大橋から下流は開渠となっています。目黒区部分では川岸に桜並木が植えられていて、花見の季節には多くの花見客でにぎわいを呈しています。

江戸初期には、「玉川上水」から引かれた「三田上水(後の三田用水)」がこの目黒川とともに、周辺の農民の灌漑用水としても利用されており、江戸の農村経済を支える重要な役割を果たしていました。幕末から明治初期には目黒川の岸辺には多くの水車が設けられ、製粉や精米が盛んだったようです。

 

安政4年(1857年)、江戸幕府は千駄ヶ谷にあった煙硝蔵(えんしょうぐら)と呼ばれる火薬庫を目黒に移転し、「目黒砲薬製造所」を開設します。これが明治維新後も引き継がれ、陸海軍の「目黒火薬製造所」となりました。この火薬の製造には、目黒川の水と傾斜地に設けられた水車が欠かせない存在だったわけです。この火薬製造所も大正12年の関東大震災の影響で閉鎖され、現在は防衛省の関連施設が置かれています。

おはようございます。一昨日、昨日と急用により瓦版をお送りできず、失礼しました。東京では、新型コロナウイルス感染の確認者数が増加傾向にある中で経済活動が活発化しています。菅官房長官は検査件数の増加が感染確認者数の拡大につながっているとの発言をしているようですが、それでは今まで感染者の実態が不明なまま緊急事態宣言やら東京アラートやらの措置を講じていたのか、或いは感染者数を誤魔化していたのかなどといったツッコミどころ満載の言い訳としか思えないのは私だけでしょうか。いずれにせよ、政府関係者の答弁が小学生にも分かるほどの稚拙なものでしかなくなっている残念な現実を改めて実感する次第です。

 

さて、本日は「立会川(たちあいがわ)」について紹介したいと思います。立会川は東京都目黒区と品川区を流れる全長7.4キロメートルの二級河川です。昭和20年代まではきれいな小川でしたが昭和後期から水質が悪化、平成の中ごろから水質が大きく改善するようになりました。現在は暗渠化が進み、道路や遊歩道、公園などになっています。

 

立会川の水源は目黒区にある碑文谷池及び清水池で、そこから流れ出た水は南東方向へ向かいます。品川区小山、荏原、西大井、大井町を通って東京湾の勝島運河に注ぎ込みます。現在は、東大井にある月見橋から上流が暗渠となって、立会道路が走っています。

 

立会川の名称の由来には諸説あります。一つは、その昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」と呼ばれ、それが「立会川」となったという説。もう一つは、鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を、その家族や友人が最後に立ち会い見送る場所であったことから「立会川」と呼ばれたという説。更に、中延(品川区)の滝間(たきあい)という地区を流れていたので「滝間川(たきあいがわ)」と呼ばれ、それが「立会川」となったという説などがあります。

現在の品川区南大井に、国道15号線(第一京浜)と旧東海道が合流する角に鈴ヶ森刑場跡があります。そこから旧東海道を北に行くと立会川に架かる浜川橋があります。この橋は別名「涙橋」と呼ばれていますが、ここは鈴ヶ森刑場に送られる罪人の肉親が最後に別れを告げて涙で見送ることから、そう呼ばれたとのことです。

おはようございます。昨日は夏至、1年で日が一番長い日に部分日食という天体現象が起きたわけですが、東京では厚い雲に覆われてみることができませんでした。暗雲が垂れ込む日本列島というわけなのかどうかは分かりませんが、今朝の東京も上空には厚い雲が見え、これから雨が降る天気予報となっています。「雨降って地固まる」日本になることを願うばかりです。

 

さて、本日は「笄川(こうがいがわ)」について紹介してみましょう。笄川は、東京都港区と渋谷区の境界付近を流れる古川水系の河川で、渋谷川の支流の一つです。

 

現在の南青山を外苑西通り沿いに流れる河川と、青山墓地の東側を流れる河川が西麻布で合流して南に流れ、天現寺橋で渋谷川に入り込むのがこの笄川です。現在は全面的に暗渠化されているのでその流れを見ることはできませんが、渋谷川と古川の境目となる笄川との合流地点でわずかにその姿を垣間見ることができます。笄川の水源は、昔は青山から麻布にかけて大小の水源が存在していたようですが、現在は根津美術館内の池と有栖川宮記念公園内の池のみが水源となっているようです。

 

笄川の「笄」とは、髪を掻き揚げて髷(まげ)を形作る装飾的な結髪用具のことです。天慶2年(939年)、平将門が起こした天慶の乱の際に、源経基(みなもとつねもと)が前司広雄(ぜんじひろお)によって設けられた関所を通過する際に、将門の味方と偽る証として笄を渡したとの故事から、その関所の場所を「笄橋」と名付けられたのが笄川の由来との説があります。この他にも、この辺り一帯が伊賀」や甲賀の忍者屋敷があったために、「甲賀伊賀町(こうがいがちょう)と呼ばれ、それが「(笄町)こうがいちょう」となり、そこを流れる川なので笄川となったという説もあります。

現在、笄町の名称は消え、笄川のほか、港区立笄小学校や笄坂などにその名称の名残をみせるだけになっています。

おはようございます。コロナ騒ぎの中、国際関係にきな臭さが漂ってきています。朝鮮半島では北朝鮮による韓国への嫌がらせともとれる行為が相次ぎ、中国とインドとの間では軍事衝突が起こっているようです。自然災害等により経済状況が悪化すると、とかく物資の奪い合いなど紛争に発展しやすくなるのは歴史の常ですが、今回のコロナ騒ぎによる経済の悪化が最悪の結果にならないよう祈るばかりです。

 

さて、本日は「入間川(いりあいがわ)」について紹介していきたいと思います。この入間川は、以前紹介した荒川の支流の「入間川(いるまがわ)」とは別の河川で、東京都港区を流れる渋谷川(古川)水系に属しています。

 

渋谷川が天現寺橋を越えると古川になることは前回紹介した通りです。この渋谷川・古川に流れ込む支流は小さいながらも多く存在するのですが、この川の本流から流れ出る分流は入間川はのみとなります。入間川の流路は諸説ありますが、基本的には古川の三の橋辺りで分岐して西に進み、三田段丘と高輪台地の狭い敷地を北上、再び西に向かって流れ旧薩摩藩邸の先を抜けて東京港口から芝浦運河の重箱堀に流れ込むというものです。

 

この入間川は、江戸初期までには三の橋から薩摩藩邸間の流路は埋設され、わずかに薩摩藩邸から重箱堀までの流路が残されていました。この残された下流部分は大正時代まで存在していましたが、水量はわずかで三田用水や細川用水の末流を水源とするどぶ川となっていたようです。江戸時代、西応寺橋辺りの住民が入間川の浚渫費用を薩摩藩にも一部負担することを求める嘆願書が残されています。

入間川の流路で大いに疑問があるのは、三田段丘と高輪台地に挟まれた地域をどう越えていったのかということです。標高は7メートル、礫層が見付かっていないために、流路の存在を疑う声も出ています。その一方で、海に流れ込む最下流部は芝浦運河の重箱堀として現在も残されています。江戸時代には「芝浜」として漁師たちの集まる網干場となっていました。

おはようございます。昨日、一昨日と朝から急用が入ってしまい、瓦版をお送りできず恐縮でした。東京では新型コロナ感染者の確認者数が増えているにもかかわらず経済は動き始めており、判断基準が曖昧なままで都民は不安な日々を過ごしています。ウイルスは怖いが生活もしなければならない矛盾を抱えた現代人の悲壮な思いを感じざるを得ません。この世の中、根本が間違っているように思えます。

 

さて、本日は「渋谷川(しぶやがわ)・古川(ふるかわ)」について紹介しようと思います。現在の渋谷川及び古川は東京都渋谷区と港区を流れる川で、二級水系の古川水系の二級河川となっていて、上流部分が渋谷川、下流部分が古川と呼ばれています。




渋谷川の水源である東京都公共下水道の渋谷区宮益橋(渋谷駅南側)から港区の天現寺橋までの2.4キロメートルが渋谷川、天現寺橋から浜崎橋先の河口までの4.4キロメートルが古川とされています。流域面積は渋谷川部分が14平方キロメートル、古川部分が8.8平方キロメートルとなっています。古川部分は、江戸時代から昭和初期にかけては「新堀川(しんぼりがわ)」、「赤羽川(あかばねがわ)」、「金杉川(かなすぎがわ)」とも呼ばれていました。




渋谷川は、元々は明治以降に「穏田川(おんだがわ)」とも呼ばれる渋谷川の更なる上流部分も含んでいました。穏田川は現在の四谷四丁目交差点のやや西側にある新宿御苑東角辺りから玉川上水から分流する流れと、新宿御苑の西接していた天竜寺との間で同じく玉川上水から分流する流れが源頭となり、千駄ヶ谷町(新宿御苑南交差点付近)で合流して南流、原宿村、穏田村を貫き上渋谷村へと続き、現在の渋谷川につながっていました。

この渋谷川・古川には、多くの支流がありました。穏田川のほか、代々木村(渋谷区西原)を水源として「初台川」や「河滑川」などを合流して中渋谷村(渋谷駅北側)で合流する「宇田川(うだがわ)」、南青山から流れて天現寺橋付近で合流する「笄川(こうがいがわ)」、前回紹介した「桜川」などです。




下流の古川は、江戸幕府の都市計画の一環として、当時江戸湊の河口であった金杉橋から四ノ橋まで舟入工事が進められ、大名屋敷を中心とした市街地が形成されていました。川沿いには荷上場や河岸が多く建ち並び、特に一ノ橋より下流では舟運が盛んに行われていたようです。




渋谷川の名称の由来となる「渋谷」の語源については諸説あります。「渋」は渋谷川の鉄分を多く含む渋色(赤茶色)の水に由来し「谷」は地形に由来するという説、相模国の渋谷村を出自とする渋谷氏一族が周辺地域に居を構えていたとする説などです。かつて渋谷川は、そこで採取された蛍が徳川将軍に献上されるほどの清流で、当時は鮎の生息も確認されていたようです。

おはようございます。東京では経済活動も大分回復しており、正常な日常を取り戻しつつあるように思えますが、多くの大手企業では依然として在宅勤務体制がとられています。そんな中、昨日の東京都の新型コロナウイルス感染者数として47人が確認されたわけですが、東京都からは特段のコメントがみられません。一方、北京では一昨日から昨日にかけて44人の感染者が確認され、「非常時」として第二波への警戒が叫ばれています。日中の危機管理に対する考え方の違いが浮き彫りになっています。

 

さて、本日はもう一つの「桜川(さくらがわ)」について紹介したいと思います。「八丁堀川」が、明治期に「桜川」と呼ばれるようになったことは以前紹介した通りですが、ここではそれとは別に、汐留川から分流して南に流れ、古川橋に注ぐ人工の溝渠であった桜川を紹介します。

 

江戸時代以前は、今の新宿区若葉付(四ツ谷駅南側)近から赤坂御用地内の池を経て赤坂見附側へと下り、後の溜池となる低湿地を経て、虎ノ門と愛宕山の間辺りで当時の日比谷入江に注ぐ小さな川がありました。上流部を「鮫川」と呼ばれていたそうです。

江戸時代に入り、日比谷入江が埋め立てられ、外堀の整備が進められると同時に、その小川の水が人工の流路として付け替えられ、桜川として整備されたとされています。人工の流路は、溜池に平行してそのすぐ南を南東に流れ、虎ノ門の南側で南に折れて愛宕山の東側を流れ、増上寺広度院御本坊の手前で東に折れ、大横町(芝大門)で宇田川を分流します。そのすぐ先の三島町で南に折れ、そこから増上寺の東側を南流して、将監橋(しょうげんばし)のたもとで「古川」に注いでいました。途中は、いくつもの細流に分かれて、市中の側溝の役割を果てしていました。

 

その後、外堀の整備の一環として弁慶堀が開削されたことによって、鮫川や現在の千代田区紀尾井町付近を南流していた支流である清水谷からの流れは断ち切られました。このため、それ以降の桜川は溜池やそこから流れ出す汐留川の水が利用されていたものと思われます。現在、桜川とその細流は埋め立てられるか、或いは下水道に転用されています。

おはようございます。雨の予報だった今朝の東京都心は、雲の間から太陽が顔をのぞかせ眩しい日差しが窓から差し込んできています。風が強く、これから次第に雲が増えて午後から雨が降り出すようです。西日本はすでに梅雨入り、関東も今日辺りは梅雨入りの可能性がありそうです。明日は所用により、瓦版はお休みさせていただきます。

 

さて、本日は「宇田川(うだがわ)」について紹介しようと思います。江戸時代、現在の港区東新橋二丁目、新橋六丁目、浜松町一丁目、芝大門一丁目辺りに「宇田川町(うだがわちょう)」という町があり、その辺りを流れていた川を宇田川と呼んでいました。

 

現在は埋め立てられていて存在していませんが、次回紹介する八丁堀川とは別の「桜川(さくらがわ)」から大横町(愛宕警察署辺り)で分流し、宇田川町(新橋と芝大門の間)を経て新銭座町(東新橋)の南側を流れて、浜離宮庭園の西南角辺りで海に注いでいました。この宇田川が東海道を横切る場所(第一京浜の浜松町一丁目交差点やや北側)には、宇田川橋が架かっていました。

 

宇田川の地名ですが、江戸時代の地誌『御内府備考』によると、上杉修理太夫朝興の家臣、宇田川和泉守の子、宇田川喜兵衛がこの地を開き名主となり、宇田川町となったとあります。また、『再訂江戸総鹿子新増大全』では、小田原北条氏の家臣、宇田川和泉守が天正18年(1590年)にこの地の名主となり、宇田川町となったとあります。

文政10年(1827年)の総家数387軒、うち家持5軒、家主28軒、地借70軒、店借284軒との記録が残っています。また文政7年(1824年)の『江戸買物独案内』には、おしろいや紅の問屋丁字屋、紙問屋で薬種商でもあった越前屋、釘・鉄・銅物などを扱う問屋の角屋、墨・筆・硯の摂津屋などがあり、この界隈は商店街として結構賑わっていたようです。

おはようございます。昨日は急用のため瓦版の更新ができず、失礼しました。コロナ騒ぎも大分落ち着いてきたようで、経済活動も徐々に再開されつつあります。とはいえ、海外への渡航は難しく、首都圏から他の日本国内への移動も自粛する必要があり、完全に復旧するまでにはもうしばらく時間がかかります。企業の今年度の事業計画も先の見通しが立たず、事業予算計画もかなりいい加減なものになりそうです。経済見通しが立たない国の将来への不安は募るばかりです。

 

さて、本日は「汐留川(しおどめがわ)」について紹介したいと思います。汐留川は、汐留川二級水系の二級河川で、東京都港区から中央区を流れ東京湾に注いでいますが、もともとは江戸城の外堀とともに、溜池の水の排水路として作られたものでした。現在では、そのほとんどが埋め立てられています。

 

もともとこの辺りには、溜池の低湿地、及びその上流の清水谷(千代田区紀尾井町)、鮫川(新宿区若葉、信濃町)、大刀洗川(港区赤坂檜町公園)を水源として、愛宕山の北辺りで日比谷入江に注ぐ「桜川」と呼ばれる小さな川がありました。徳川家康が江戸に入府すると、江戸城と江戸市街の整備が進み、日比谷入江は埋め立てられます。そこに人工の水路が設けられ、溜池からの流れは外堀を東側に向けられるようになりました。溜池からの水は、虎ノ門、幸橋門を経て京橋区丸屋町(中央区銀座)と芝区双葉町(港区新橋)の間を東に流れ、江戸湾に注ぎ込んでいました。これが汐留川の大本になります。

 

その後、承応3年(1654年)に甲府藩主・徳川綱重がこの川の河口の地を拝領し、海を埋め立てて別邸が建てられます。この別邸は甲府藩の下屋敷として利用されていましたが、後に徳川将軍家の別邸「浜御殿」として使われました。これが浜離宮庭園です。この庭園が建設されると、それを取り囲むように水路が延長され、浜離宮南門橋の手前で築地川と合わせて南西に折れ浜離宮庭園の西縁の水路が汐留川と呼ばれるようになりました。

江戸湾からの潮の干満の影響が上流の溜池に及ばないように堰堤をつくり、海側の汐水を堰き止めたことから、汐留川の名が付けられましたが、明治以降、汐留川はその上流にまで拡大されます。溜池から虎ノ門、幸橋門、新橋までも汐留川と呼ばれるようになりました。しかし、その後は埋め立てが進み、現在ではもともとの汐留川であった最下流部の浜離宮庭園西縁及び南縁の約900メートルを残すのみとなっています。

おはようございます。いつも通りの早朝の出勤でしたが、意外と地下鉄も普段より人が多く感じました。時差出勤を奨励しているためなのでしょうか、確かにニュースなどでは、通勤時間帯の電車のラッシュの映像が流れています。普段から人混みが嫌いな私としては、たとえ1分たりともそんな電車に揺られるくらいなら、歩くか或いは混雑が緩和するまで乗るのを見合わせるかの選択肢を選んでしまいます。通勤地獄は今も昔も変わりません。

 

さて、本日は「築地川(つきじがわ)」について紹介していきたいと思います。現在の築地川は、二級築地川水系の二級河川で、東京都中央区の浜離宮庭園の東側を流れ東京湾に注いでいます。延長750メートル、流域面積は5.55平方キロメートルとなっています。

 

江戸時代、もともとは海であった江戸前島の東側を造成して、その際に船舶用の船入水路として埋め残されたのが築地川だと言われています。隅田川の明石町付近から明石堀に沿って堺橋を越えて内陸に入り、現在の中央区役所付近から首都高環状線沿いを流れ、浜離宮恩賜庭園の東側を通って隅田川に合流していました。ちょうど築地一帯を囲む形になっていました。現在残っているのは、上述したように浜離宮庭園の東側の築地川本流だけです。

築地川には、本流の他に現在の首都高銀座出入口の辺りから分流して隅田川に流れる東支流、更には聖路加国際大学辺りから築地方面に流れ東支流に合流する南支流がありました。南支流沿いには小田原河岸、明石堀には南飯田河岸がありました。南支流周辺は、明治期に築地居留地として造成されています。

 

築地川は数度の埋め立てにより、本流の大部分、東支流、南支流が完全に消滅して、本流河口部分が残るのみとなっています。

おはようございます。コロナ禍による在宅勤務が明けて1週間が経ちました。経済活動が再開し始めた矢先に、また東京の感染者が徐々に増え始めています。ゴールデンウィーク明けの気の緩みが今の結果として現れており、経済活動再開による更なる感染者の増加を懸念する声も聞かれます。正体の未だ掴めぬ新型コロナウイルス。経済と衛生の両立は、果たして今の日本で可能なのでしょうか?

 

さて、本日は「鉄砲洲川(てっぽうずがわ)」について紹介しようと思います。鉄砲洲川は、「鉄炮洲川」とも書かれ、現在の東京都中央区を流れていた水路です。寛永年間(1624年~1645年)に開削されたと言われ、昭和4年(1929年)に関東大震災の後の瓦礫処理のために埋め立てられました。

 

鉄炮洲川が流れていたルートは、隅田川から本湊町(中央区湊二丁目)と船松町(湊三丁目)の間から分流して西に入り、新湊町四丁目(湊三丁目)の地先で南に折れて明石町(中央区明石町)を流れて、新湊橋の先で築地川から流れ込んでいた明石堀に合流していました。

 

鉄砲洲川のあった鉄砲洲は、築地で最後に埋め立てられた地域で、その地形が火縄銃に見立てられてその名が付いた、或いは鉄砲の演習地であったので名付けられたとも言われています。鉄砲洲川に架けられていた橋では、隅田川からの分流地点の鉄砲洲橋、小橋、見当橋(みとめばし)、浦堀橋、新湊橋がありました。

鉄砲洲に設けられた明石町は、明暦の大火以降の築地埋め立ての最中に播磨国明石の漁民が移住した町と言われています。対岸の佃島を淡路島に見立てていたようです。築地川については追って紹介しますが、その一部が明石町側に流れ込むのが明石堀です。明石堀は扇型の入江堀となっており、築地川の南支流の堺橋から明石橋を通って隅田川に合流していました。

 

明治元年(1868年)、明治新政府は日米通商条約に基づいて築地鉄砲洲の7千坪を外国人居留地として定め、キリスト教宣教師の教会やミッションスクールが置かれていました。青山学院、女子聖学院、明治学院、立教学院などの教育機関はこの地で生まれています。

おはようございます。米国ミネソタ州で起きた白人警官による黒人男性殺害事件を発端に始まった抗議デモがコロナ禍にある全米に拡大し、多くの都市では略奪や放火といった事態にまで発展し、混乱が続いています。米中関係も悪化の一途をだどり、米国を取り巻く国内外の環境は更に厳しさを増しています。こうした事態こそ、人が直接自らの手で生じさせた現象であり、自然災害と違って人間自らの責任を目に見える形で認識し、反省することができるはずです。その反省ができず、更に過ちを繰り返すとなれば、地球は崩壊の一途をだどることになるだけです。

 

さて、 本日は「三十間堀川(さんじっけんほりかわ)」について紹介しようと思います。三十間堀川は、江戸時代に造られた堀川で、かつて現在の東京中央区の中央通りと昭和通りの間を流れていました。京橋川、楓川、八丁堀が交差する今の首都高京橋ジャンクションから南に入り、直ぐに西に折れて、またその直後に南に折れるカギの字型になった後は南西に一直線に流れて汐留川(御堀)に架かる芝口橋〔新橋(あらたばし)〕と汐留寄りの間で汐留川に合流していました。三十間堀川が開削された当初、木挽橋、新橋〔三原橋〕、紀伊国橋、牛草橋(真福寺橋)の四つの橋が架けられていました。

 

三十間堀川は、慶長17年(1612年)に江戸幕府が江戸の舟入堀を整備するために西国大名に命じて開削されたもので、その幅が約30間(約55メートル)あったことからその名が付けられました。江戸前島の海岸線を利用して造られ、周辺には舟運の荷上場として河岸地があり、近年まで物資を輸送する商船や屋形船が行き来し、賑わっていたようです。川の北西側には西豊玉河岸、東南側には東豊玉河岸があり、江戸時代初期には尾張徳川家や紀伊徳川家の蔵屋敷、京極・加藤・松平等の大名屋敷が並んでいました。

 

文政11年(1828年)、三十間堀川の両岸に河岸地が広げられ、堀幅が19間(約34メートル)に狭められます。明治36年(1903年)、京橋川の分流地点が楓川・桜川(八丁堀)の境界付近から京橋寄りに移され、元の水路や白魚河岸が埋め立てれました。江戸の防衛のためにカギ状になっていた水路を船が航行しやすいように真っすぐにしたものです。

 

第二次世界大戦後、残土や瓦礫がこの三十間堀川に投棄され埋め立てが始まり、昭和24年(1949年)7月に埋め立てが完了し、水路としての三十間堀川は消滅しました。このように戦後の瓦礫処理のために埋め立てられた河川として、三十間堀川のほかに、これまで紹介してきた東堀留川、龍閑川、浜町川、新川、外堀があります。

おはようございます。東京では、新型コロナウイルス感染者が再び増加傾向にあります。昨日は東京で34名の感染者が確認されたとのことで、小池都知事が警戒を示す「東京アラート」を発動しました。これにより具体的に何が変わるわけではありませんが、首都圏住民に再び危機感が刷り込まれたことになります。ウイルスの正体もよく分からず、人々の健康や社会・経済への影響もまったく見通せません。人々の不安は募るばかりです。

 

さて、本日は前回の京橋川に関連して、いくつか面白いエピソードを紹介したいと思います。江戸時代、京橋川には「比丘尼橋(びくにばし)」、「中之橋」、「京橋」、「三年橋」、「白魚橋」の5つの橋が架けられていました。これが明治以降になると、比丘尼橋が「城邊橋(じょうへんばし)」、中之橋が「紺屋橋」、京橋は京橋のまま、三年橋が「炭谷橋」、新たに「新京橋」が架けられ、そして白魚橋は白魚橋のまま、合わせて6つの橋が架けられていました。

 

その中で、比丘尼橋は江戸城外堀から京橋川に分岐する入口に架かっていました。近くに尼僧の比丘尼宿があったことから名付けられました。比丘尼橋の近くには享保3年(1718年)創業の尾張屋という老舗がありますが、ここは「山くじら」と呼ばれた猪肉料理の店として有名でした。昭和5年(1930年)、関東大震災の復興橋梁として架け直され、「城邊橋」と改名されました。

 

京橋川に架かる白魚橋南詰、京橋の南、大根河岸北の3カ所に、享保13年(1728年)に白魚役12名に拝領された白魚屋敷がありました。江戸城に白魚を献上するために置かれた白魚屋敷から白魚橋や白魚河岸と名付けられました。江戸湊の監視も踏まえた漁業権を与えられた佃島の漁民が、郷里である摂津から白魚の稚魚を取り寄せて放流し、毎年11月から3月までを白魚の漁期としていました。家康が白魚を好んだのは、透き通って見える白魚の脳が三つ葉葵の家紋と見立てたからと伝えられています。

 

京橋川の中之橋と京橋との間の北詰西河岸にあった大根河岸は、数寄屋河岸にあった青物市場が消失したことから、寛文4年(1664年)に水運が便利ということで移転してきたものです。この河岸では大根をはじめとする野菜の荷揚げが多く、37の問屋がひしめき神田青物市場に次ぐ賑わいをみせていたそうです。ここに集積する野菜としては、練馬の大根、滝野川の牛蒡、駒込の茄子、千住の葱、谷中の生姜、不忍池の蓮根、小松川の小松菜などでした。

 

京橋と白魚橋の間の北東河岸には竹商人が多くいたことから、竹河岸と呼ばれていました。竹の多くは下総国や上総国より高瀬舟に乗せられて隅田川から京橋川に入り、下野国や上野国からも筏に組んで送られてきました。竹は家屋の建材や建築の足場、物干し竿、熊手、竹箒、笊、籠、筆など多くの竹細工などに使われ、需要は尽きませんでした。

 

京橋が、日本橋から京都に向かう東海道の橋であったことからその名が付けられたことは、前回お話した通りです。戯作者の「山東京伝」ですが、彼は京橋のたもとで生まれたと言われ、実名は「岩瀬伝蔵」と言いました。このため、「京橋の伝蔵」と呼ばれたことで、筆名を「京伝」とし、京橋が江戸城紅葉山の東に位置することから、「山の東」ということで、苗字を「山東」としたと言われています。

 

探してみると、他にもいろいろなエピソードが見付かりそうです。

おはようございます。2カ月近い在宅勤務中、休憩時間はテレビを見る機会も少なくなく、各局どの番組を見ても新型コロナ一色の話題で盛り上がりをみせていました。他に何か話題はないのかよ...と思っていると、黒川検事長の定年延長と賭けマージャン事件の処理をめぐる問題で多少の彩をみせる程度で、この間は外出自粛で世の中から隔絶された空間で単に時間を過ごしていた感じです。今も職場では座席の距離を離し、マスク着用を義務付け、外出や来客も大きく制限、ましてや海外との往来は状況が一切許されない状態です。

 

さて、本日は「京橋川(きょうばしがわ)」について紹介してみたいと思います。京橋川は、かつて江戸城の外堀から楓川と八丁堀及び三十間堀川の合流地点までの約600メートルの人工の河川で、現在は埋め立てられて首都高速がその上を通っています。

 

江戸城外堀に架かる鍛治屋橋の少し南側にあった比丘尼橋から東側に分流していました。京橋川を挟んで北側が北紺屋町(中央区八重洲二丁目)、南側が南紺屋町(中央区銀座一丁目)でした。北側には薪河岸、大根河岸、竹河岸が並び、南側には白魚河岸があり、河岸は多くの問屋で賑わっていました。

京橋川は、東海道で京都に向かう「京橋」が架けられていたために、その名前が付けられたといわれています。京橋が架けられたのは慶長年間(1596年~1615年)、欄干には擬宝珠があり、江戸市中では日本橋や新橋(芝口橋)とともに幕府に管理されていた重要な橋の一つでした。

 

京橋川は終戦直後まで存在していましたが、戦後の復興事業の一環として外堀や桜川(八丁堀)、楓川とともに埋め立てられ、昭和34年(1954年)には水路としての京橋川は消滅しました。

おはようございます。久しぶりの瓦版、長い間お休みをいただきました。東京も緊急事態宣言が解除され、我が職場も時間短縮ながら事務所での業務再開となりました。在宅勤務というものは、効率も悪く、運動不足に陥り、何かとストレスが溜まります。外出といえば買物に出るぐらいで、家の中での運動など限られたことしかできません。一日、二日ならまだしも、二カ月近くこのような状況が続けば、確実に身体が蝕まれることは必至です。新型コロナウイルスが人類に影響を及ぼすというのは、ウイルスそのものよりも、生活習慣の不健全化による弊害の方が大きいように感じてしまうのは、私だけでしょうか? 細菌学の観点ばかりでなく、健康医療というものの総合的な見方からの対策が求められるところです。

 

さて、本日は「八丁堀(はっちょうぼり)」について紹介したいと思います。八丁堀は、前回紹介した「楓川」と「京橋川(きょうばしがわ)」の合流点〔中央区新富〕から流れて本湊町〔中央区湊〕の地先で「亀島川」に合流していた水路です。

 

京橋川や楓川から亀島川を連絡する水路として、慶長17年(1612年)に開削されました。堀の北側には本八丁堀河岸、南側には南八丁堀河岸があり、明治16年(1883年)に「桜川(さくらがわ)」と改称されて以降は、それぞれ北桜河岸、南桜河岸と呼ばれていました。昭和44年(1969年)に埋め立てられるまで、隅田川と外堀をつなぐ重要な水運の通路としての役割を果たしてきました。

 

桜川の名称は、八丁堀が楓川とつながっていたことから、「秋のかえで」と対称される「春のさくら」から付けられたと言われています。

 

八丁堀の名前の由来は、この水路の長さが約8町(約873メートル)あったことからそう呼ばれるようになり、この界隈の町名にもなっています。江戸時代、寛永12年(1635年)に江戸城下の拡張工事が行われるまで八丁堀辺りは寺町でしたが、その後多くの寺社は郊外に移転します。その後、元禄年間(1688年~1704年)に、それまで本所辺りに住んでいた江戸町奉行所の与力・同心が組屋敷を拝領して移転してきました。このため、江戸町奉行所の与力などは「八丁堀の旦那」と呼ばれ、庶民に信頼されていたことは、時代劇でもお馴染みのシーンでご存知かと思います。

2020年9月

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