東藝術倶楽部瓦版 20200601:【江戸の川その73】江戸町奉行所与力・同心の組屋敷-「八丁堀」

おはようございます。久しぶりの瓦版、長い間お休みをいただきました。東京も緊急事態宣言が解除され、我が職場も時間短縮ながら事務所での業務再開となりました。在宅勤務というものは、効率も悪く、運動不足に陥り、何かとストレスが溜まります。外出といえば買物に出るぐらいで、家の中での運動など限られたことしかできません。一日、二日ならまだしも、二カ月近くこのような状況が続けば、確実に身体が蝕まれることは必至です。新型コロナウイルスが人類に影響を及ぼすというのは、ウイルスそのものよりも、生活習慣の不健全化による弊害の方が大きいように感じてしまうのは、私だけでしょうか? 細菌学の観点ばかりでなく、健康医療というものの総合的な見方からの対策が求められるところです。

 

さて、本日は「八丁堀(はっちょうぼり)」について紹介したいと思います。八丁堀は、前回紹介した「楓川」と「京橋川(きょうばしがわ)」の合流点〔中央区新富〕から流れて本湊町〔中央区湊〕の地先で「亀島川」に合流していた水路です。

 

京橋川や楓川から亀島川を連絡する水路として、慶長17年(1612年)に開削されました。堀の北側には本八丁堀河岸、南側には南八丁堀河岸があり、明治16年(1883年)に「桜川(さくらがわ)」と改称されて以降は、それぞれ北桜河岸、南桜河岸と呼ばれていました。昭和44年(1969年)に埋め立てられるまで、隅田川と外堀をつなぐ重要な水運の通路としての役割を果たしてきました。

 

桜川の名称は、八丁堀が楓川とつながっていたことから、「秋のかえで」と対称される「春のさくら」から付けられたと言われています。

 

八丁堀の名前の由来は、この水路の長さが約8町(約873メートル)あったことからそう呼ばれるようになり、この界隈の町名にもなっています。江戸時代、寛永12年(1635年)に江戸城下の拡張工事が行われるまで八丁堀辺りは寺町でしたが、その後多くの寺社は郊外に移転します。その後、元禄年間(1688年~1704年)に、それまで本所辺りに住んでいた江戸町奉行所の与力・同心が組屋敷を拝領して移転してきました。このため、江戸町奉行所の与力などは「八丁堀の旦那」と呼ばれ、庶民に信頼されていたことは、時代劇でもお馴染みのシーンでご存知かと思います。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年6月 1日 11:33に書いたブログ記事です。

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