東藝術倶楽部瓦版 20200602:【江戸の川その74】河岸で賑わう「京橋川」

おはようございます。2カ月近い在宅勤務中、休憩時間はテレビを見る機会も少なくなく、各局どの番組を見ても新型コロナ一色の話題で盛り上がりをみせていました。他に何か話題はないのかよ...と思っていると、黒川検事長の定年延長と賭けマージャン事件の処理をめぐる問題で多少の彩をみせる程度で、この間は外出自粛で世の中から隔絶された空間で単に時間を過ごしていた感じです。今も職場では座席の距離を離し、マスク着用を義務付け、外出や来客も大きく制限、ましてや海外との往来は状況が一切許されない状態です。

 

さて、本日は「京橋川(きょうばしがわ)」について紹介してみたいと思います。京橋川は、かつて江戸城の外堀から楓川と八丁堀及び三十間堀川の合流地点までの約600メートルの人工の河川で、現在は埋め立てられて首都高速がその上を通っています。

 

江戸城外堀に架かる鍛治屋橋の少し南側にあった比丘尼橋から東側に分流していました。京橋川を挟んで北側が北紺屋町(中央区八重洲二丁目)、南側が南紺屋町(中央区銀座一丁目)でした。北側には薪河岸、大根河岸、竹河岸が並び、南側には白魚河岸があり、河岸は多くの問屋で賑わっていました。

京橋川は、東海道で京都に向かう「京橋」が架けられていたために、その名前が付けられたといわれています。京橋が架けられたのは慶長年間(1596年~1615年)、欄干には擬宝珠があり、江戸市中では日本橋や新橋(芝口橋)とともに幕府に管理されていた重要な橋の一つでした。

 

京橋川は終戦直後まで存在していましたが、戦後の復興事業の一環として外堀や桜川(八丁堀)、楓川とともに埋め立てられ、昭和34年(1954年)には水路としての京橋川は消滅しました。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年6月 2日 12:42に書いたブログ記事です。

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