東藝術倶楽部瓦版 20200603:【江戸の川その75】京橋川にまつわるエピソードあれこれ

おはようございます。東京では、新型コロナウイルス感染者が再び増加傾向にあります。昨日は東京で34名の感染者が確認されたとのことで、小池都知事が警戒を示す「東京アラート」を発動しました。これにより具体的に何が変わるわけではありませんが、首都圏住民に再び危機感が刷り込まれたことになります。ウイルスの正体もよく分からず、人々の健康や社会・経済への影響もまったく見通せません。人々の不安は募るばかりです。

 

さて、本日は前回の京橋川に関連して、いくつか面白いエピソードを紹介したいと思います。江戸時代、京橋川には「比丘尼橋(びくにばし)」、「中之橋」、「京橋」、「三年橋」、「白魚橋」の5つの橋が架けられていました。これが明治以降になると、比丘尼橋が「城邊橋(じょうへんばし)」、中之橋が「紺屋橋」、京橋は京橋のまま、三年橋が「炭谷橋」、新たに「新京橋」が架けられ、そして白魚橋は白魚橋のまま、合わせて6つの橋が架けられていました。

 

その中で、比丘尼橋は江戸城外堀から京橋川に分岐する入口に架かっていました。近くに尼僧の比丘尼宿があったことから名付けられました。比丘尼橋の近くには享保3年(1718年)創業の尾張屋という老舗がありますが、ここは「山くじら」と呼ばれた猪肉料理の店として有名でした。昭和5年(1930年)、関東大震災の復興橋梁として架け直され、「城邊橋」と改名されました。

 

京橋川に架かる白魚橋南詰、京橋の南、大根河岸北の3カ所に、享保13年(1728年)に白魚役12名に拝領された白魚屋敷がありました。江戸城に白魚を献上するために置かれた白魚屋敷から白魚橋や白魚河岸と名付けられました。江戸湊の監視も踏まえた漁業権を与えられた佃島の漁民が、郷里である摂津から白魚の稚魚を取り寄せて放流し、毎年11月から3月までを白魚の漁期としていました。家康が白魚を好んだのは、透き通って見える白魚の脳が三つ葉葵の家紋と見立てたからと伝えられています。

 

京橋川の中之橋と京橋との間の北詰西河岸にあった大根河岸は、数寄屋河岸にあった青物市場が消失したことから、寛文4年(1664年)に水運が便利ということで移転してきたものです。この河岸では大根をはじめとする野菜の荷揚げが多く、37の問屋がひしめき神田青物市場に次ぐ賑わいをみせていたそうです。ここに集積する野菜としては、練馬の大根、滝野川の牛蒡、駒込の茄子、千住の葱、谷中の生姜、不忍池の蓮根、小松川の小松菜などでした。

 

京橋と白魚橋の間の北東河岸には竹商人が多くいたことから、竹河岸と呼ばれていました。竹の多くは下総国や上総国より高瀬舟に乗せられて隅田川から京橋川に入り、下野国や上野国からも筏に組んで送られてきました。竹は家屋の建材や建築の足場、物干し竿、熊手、竹箒、笊、籠、筆など多くの竹細工などに使われ、需要は尽きませんでした。

 

京橋が、日本橋から京都に向かう東海道の橋であったことからその名が付けられたことは、前回お話した通りです。戯作者の「山東京伝」ですが、彼は京橋のたもとで生まれたと言われ、実名は「岩瀬伝蔵」と言いました。このため、「京橋の伝蔵」と呼ばれたことで、筆名を「京伝」とし、京橋が江戸城紅葉山の東に位置することから、「山の東」ということで、苗字を「山東」としたと言われています。

 

探してみると、他にもいろいろなエピソードが見付かりそうです。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年6月 3日 08:12に書いたブログ記事です。

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