おはようございます。米国ミネソタ州で起きた白人警官による黒人男性殺害事件を発端に始まった抗議デモがコロナ禍にある全米に拡大し、多くの都市では略奪や放火といった事態にまで発展し、混乱が続いています。米中関係も悪化の一途をだどり、米国を取り巻く国内外の環境は更に厳しさを増しています。こうした事態こそ、人が直接自らの手で生じさせた現象であり、自然災害と違って人間自らの責任を目に見える形で認識し、反省することができるはずです。その反省ができず、更に過ちを繰り返すとなれば、地球は崩壊の一途をだどることになるだけです。
さて、 本日は「三十間堀川(さんじっけんほりかわ)」について紹介しようと思います。三十間堀川は、江戸時代に造られた堀川で、かつて現在の東京中央区の中央通りと昭和通りの間を流れていました。京橋川、楓川、八丁堀が交差する今の首都高京橋ジャンクションから南に入り、直ぐに西に折れて、またその直後に南に折れるカギの字型になった後は南西に一直線に流れて汐留川(御堀)に架かる芝口橋〔新橋(あらたばし)〕と汐留寄りの間で汐留川に合流していました。三十間堀川が開削された当初、木挽橋、新橋〔三原橋〕、紀伊国橋、牛草橋(真福寺橋)の四つの橋が架けられていました。
三十間堀川は、慶長17年(1612年)に江戸幕府が江戸の舟入堀を整備するために西国大名に命じて開削されたもので、その幅が約30間(約55メートル)あったことからその名が付けられました。江戸前島の海岸線を利用して造られ、周辺には舟運の荷上場として河岸地があり、近年まで物資を輸送する商船や屋形船が行き来し、賑わっていたようです。川の北西側には西豊玉河岸、東南側には東豊玉河岸があり、江戸時代初期には尾張徳川家や紀伊徳川家の蔵屋敷、京極・加藤・松平等の大名屋敷が並んでいました。
文政11年(1828年)、三十間堀川の両岸に河岸地が広げられ、堀幅が19間(約34メートル)に狭められます。明治36年(1903年)、京橋川の分流地点が楓川・桜川(八丁堀)の境界付近から京橋寄りに移され、元の水路や白魚河岸が埋め立てれました。江戸の防衛のためにカギ状になっていた水路を船が航行しやすいように真っすぐにしたものです。
第二次世界大戦後、残土や瓦礫がこの三十間堀川に投棄され埋め立てが始まり、昭和24年(1949年)7月に埋め立てが完了し、水路としての三十間堀川は消滅しました。このように戦後の瓦礫処理のために埋め立てられた河川として、三十間堀川のほかに、これまで紹介してきた東堀留川、龍閑川、浜町川、新川、外堀があります。
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