おはようございます。コロナ騒ぎの中、国際関係にきな臭さが漂ってきています。朝鮮半島では北朝鮮による韓国への嫌がらせともとれる行為が相次ぎ、中国とインドとの間では軍事衝突が起こっているようです。自然災害等により経済状況が悪化すると、とかく物資の奪い合いなど紛争に発展しやすくなるのは歴史の常ですが、今回のコロナ騒ぎによる経済の悪化が最悪の結果にならないよう祈るばかりです。
さて、本日は「入間川(いりあいがわ)」について紹介していきたいと思います。この入間川は、以前紹介した荒川の支流の「入間川(いるまがわ)」とは別の河川で、東京都港区を流れる渋谷川(古川)水系に属しています。
渋谷川が天現寺橋を越えると古川になることは前回紹介した通りです。この渋谷川・古川に流れ込む支流は小さいながらも多く存在するのですが、この川の本流から流れ出る分流は入間川はのみとなります。入間川の流路は諸説ありますが、基本的には古川の三の橋辺りで分岐して西に進み、三田段丘と高輪台地の狭い敷地を北上、再び西に向かって流れ旧薩摩藩邸の先を抜けて東京港口から芝浦運河の重箱堀に流れ込むというものです。
この入間川は、江戸初期までには三の橋から薩摩藩邸間の流路は埋設され、わずかに薩摩藩邸から重箱堀までの流路が残されていました。この残された下流部分は大正時代まで存在していましたが、水量はわずかで三田用水や細川用水の末流を水源とするどぶ川となっていたようです。江戸時代、西応寺橋辺りの住民が入間川の浚渫費用を薩摩藩にも一部負担することを求める嘆願書が残されています。
入間川の流路で大いに疑問があるのは、三田段丘と高輪台地に挟まれた地域をどう越えていったのかということです。標高は7メートル、礫層が見付かっていないために、流路の存在を疑う声も出ています。その一方で、海に流れ込む最下流部は芝浦運河の重箱堀として現在も残されています。江戸時代には「芝浜」として漁師たちの集まる網干場となっていました。
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