おはようございます。コロナ騒ぎで慌ただしく始まった今年も、気が付いてみるともう半分が過ぎようとしています。その間、何かが大きく進んだという感覚はないのですが、テレワークや時差出勤など、知らず知らずのうちに働き方が変わりつつあります。それでも昔のやり方に拘り、時代の流れに取り残される人たちも少なくありません。もちろん、脈々と続いてきている良きものは維持していかなければならないし、復活させた方が世のため人のためになるものも少なくありません。物事の本質を見極め、取捨選択する良い機会になったのではないかと思う次第です。コロナによる混乱が本格的に表面化してくるのはこれからです。
さて、本日は「目黒川(めぐろがわ)」について紹介しようと思います。目黒川は東京都世田谷区、目黒区、品川区を流れて東京湾に注ぐ、目黒川二級水系の本流にあたる二級河川です。目黒川の延長は7.82キロメートル、流域面積は45.8平方キロメートルです。
武蔵野台地を水源とする目黒川は、世田谷区三宿の東仲橋付近で「北沢川(きたざわがわ)」と「烏山川(からすやまがわ)」が合流するところから始まります。そこから南東に流れて、品川区の天王洲アイル駅付近で東京湾に注ぎ込みます。北沢川と烏山川の合流地点から国道246号の大橋までの600メートル強は暗渠化、目黒川緑道が整備されており、大橋から下流は開渠となっています。目黒区部分では川岸に桜並木が植えられていて、花見の季節には多くの花見客でにぎわいを呈しています。
江戸初期には、「玉川上水」から引かれた「三田上水(後の三田用水)」がこの目黒川とともに、周辺の農民の灌漑用水としても利用されており、江戸の農村経済を支える重要な役割を果たしていました。幕末から明治初期には目黒川の岸辺には多くの水車が設けられ、製粉や精米が盛んだったようです。
安政4年(1857年)、江戸幕府は千駄ヶ谷にあった煙硝蔵(えんしょうぐら)と呼ばれる火薬庫を目黒に移転し、「目黒砲薬製造所」を開設します。これが明治維新後も引き継がれ、陸海軍の「目黒火薬製造所」となりました。この火薬の製造には、目黒川の水と傾斜地に設けられた水車が欠かせない存在だったわけです。この火薬製造所も大正12年の関東大震災の影響で閉鎖され、現在は防衛省の関連施設が置かれています。
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