2020年7月アーカイブ

おはようございます。一昨日、昨日と所用により瓦版をお送りできず失礼しました。我が職場も今月末で移転となり、8月から新たな事務所での執務となります。引っ越して4年程しか経っていないのですが、建物の個人オーナーが亡くなったことで建物自体が不動産屋の所有となり、オフィスビルからマンションに建て替えられることから、急遽追い出される形となったものです。移転先は港区六本木一丁目で、私としては、通勤は直線距離ではかなり近くなるものの、地下鉄では複雑な乗り換えとなるものだから、結果として路線バスで通うことにしています。とはいえ、日本全体で1日当たりのコロナ感染者がついに1,000人を超えるという異常事態の中、また在宅勤務の日々が増えそうです。明日は事務所移転準備のため、またまた瓦版を休刊とさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は前回の神田界隈を紹介したことにちなんで、「神田明神(かんだみょうじん)」について紹介していきたいと思います。「神田」の名前の大本となっている神田明神は、東京都千代田区外神田に鎮座する神社で、正式名称は「神田神社」となっています。旧准勅祭社12社のうちの東京十社の一つにもなっていますが、これについては後日詳細に紹介したいと思います。

 

社伝によると、神田明神は天平2年(730年)に武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、「大己貴命(おおなむちのみこと)」〔大黒、縁結び〕を祖神として祀ったのが始まりとされています。神田とは伊勢神宮の御田(おみた)のことを指し、その神田を鎮守するために創建されました。当初は「神田ノ宮」と呼ばれていました。また延慶2年(1309年)には、承平5年(935年)の平将門の乱で敗死した将門を「平将門命(たいらのまさかどのみこと)」〔除災厄除〕として相殿神としたそうです。

慶長8年(1603年)、江戸城増築に伴って神田明神は神田山(駿河台)に、さらに元和2年(1616年)には現在の場所に、江戸城の艮(うしとら)の方角・鬼門の守護神として遷座されました。江戸時代、神田明神で行われる「神田祭」は江戸三大祭りの一つに数えられ、山車が将軍上覧のために江戸城中に入ったことから「天下祭」とも呼ばれていました。江戸時代初期に建てられた桃山風の豪華な社殿は、天明2年(1782年)に権現造りの社殿が造営されましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失し、現在は鉄筋コンクリート構造の権現造りを模した社殿が再建されています。

 

神田ノ宮が神田明神と呼ばれるようになったのは江戸時代です。周辺の町名にも神田明神を冠したものが多くありました。野村胡堂の代表作『銭形平次捕物控』の主人公・銭形平次が住んでいたのが神田明神下の長屋という設定で、神田明神内の本殿右手横に「銭形平次の碑」があります。

 

明治元年(1686年)に准勅祭社に指定され、明治4年(1871年)に正式な社号が「神田神社」に改められました。明治7年(1874年)に明治天皇が行幸するにあたり、天皇の逆臣であった平将門が祀られていることが問題視され、将門が祭神からはずされ、代わりに茨城県の大洗磯前神社から「少彦名命(すくなひこなのみこと、恵比寿)」〔商売繁盛〕が勧請されました。戦後の昭和59年(1984年)に、将門は本社祭神に復帰しました。

おはようございます。先週は立て続けに早朝から急用が入り、瓦版の更新ができず失礼しました。それにしても新型コロナウイルス感染の拡大が止まりません。そんな中、我々の食卓にも大きな危機が訪れようとしています。長梅雨の影響で国内の農作物の生育が悪く、それに加えて水害で被害を受けた田畑も少なくありません。農産物が高騰しているかと思えば、今度はこれから旬を迎える秋のサンマの不漁が近年は続いており、今年もサンマが高嶺の花になりそうとのことです。海外ではバッタによる農作物への被害も起きていて、食糧難は世界中に拡大するかもしれません。農家でもせっかく育てた農作物の盗難という事態にも備えなければならず、ますます住み難い世の中になりそうです。

 

さて、本日は「神田界隈」を紹介しようと思います。神田は東京都千代田区の北東部にある地域で、現在でも町名が残っていることは皆さんご存知の通りです。神田神保町は昔から知られた本屋街で、私などは学生時代からよくぶらついた馴染みのあるところの一つです。

 

元々は現在の大手町にある平将門の首塚付近から駿河台(神田山)にかけての一帯を指していましたが、江戸城と江戸城下の整備後に常盤橋から浅草橋にかけての奥州往還沿いに作られた本町通りの北側を指すようになりました。神田山は江戸城下整備のための埋め立て用に削り取られ、現在は神田駿河台として大学や予備校など学生の街になっています。

 

「江戸児の産声おきやあがれとなき」。江戸城下の建設にあたっては、商人町としての日本橋に続いて、職人町として神田が置かれることになりました。鍛冶屋、紺屋、材木屋、旅籠など同業者をまとめた町づくりが行われ、仲間意識の強い地域社会が生まれたと言われています。この職人気質が「江戸っ子」を生み出すわけですが、生粋の江戸っ子に言わせると、江戸の下町は京橋・日本橋地域と神田だけだそうです。江戸が発展するに従って、その考えも変わっていったようですが、今でも江戸初期の趣が感じられるのは、こうした地域なのかもしれません。

神田は、神田川を挟んで江戸城側の内神田と城外側の外神田に分かれます。いずれも武家屋敷と町人居住地が入り混じっていましたが、駿河台辺りは大名や旗本の屋敷地で閑静な場所でした。神田川沿いには鎌倉河岸、佐久間河岸などの河港があり、江戸町民の生活物資が集まり、多町(たちょう)には青物市場が設けらえていました。

 

神田と言えば、何といっても「神田明神(かんだみょうじん)」が有名です。神田川北側の外神田に位置し、江戸時代から庶民に親しまれてきました。

おはようございます。梅雨もなかなか明けず、今週もすっきりしない日が続きそうです。関東甲信地方の梅雨明けは、7月21日頃が平均的だとのことですが、今年はもう少し後になりそうです。ちなみに昨年は7月24日頃だったようです。新型コロナウイルス感染が再び全国的に広がりをみせるなか、さて今年の夏はこの先どのような事象が起きるのでしょうか?

 

さて、 本日からはいよいよお江戸の町々を紹介していきたいと思います。先ずは「日本橋界隈」について紹介しようと思います。これまでも紹介してきた通り、徳川家康が江戸の町を築いた際に五街道の起点としたの〔慶長6年(1604年)〕が日本橋で、現在でも国道1号線をはじめとする首都東京から地方に向かう主要道路の出発点ともなっています。

 

日本橋は道路の起点となったばかりではありません。前回のシリーズでも紹介したように、江戸幕府は物資供給のために「水の道」、すなわち河川や堀を整備しました。中でも日本橋川、京橋川、三十間堀、八丁堀等の沿岸には大きな河岸が設けられ、水運の大動脈として江戸の暮らしになくてはならない存在となっていました。

 

街道の起点や水運の拠点とされた日本橋ですから、当然のことながら周辺は大きな賑わいをみせることになります。家康が江戸入府後に最初に町人地として開発したのが、この日本橋界隈でした。この日本橋界隈は、古くは武蔵国豊嶋郡に属する江戸郷前嶋村と呼ばれる地域だとされています。江戸時代以降、日本橋通り(東海道、中山道)や本町(ほんちょう)通り沿いには、間口数間(1間は1.81メートル)、奥行20間(約36メートル)の宅地が町人に割り当てられ、彼らの居住地となります。路地に面した表通りには店舗が連なる町人長屋、物売りや露店などで活気溢れる街として発展したのです。「日本橋、竜宮城の港なり」と当時の様子が川柳にも歌われています。

 

日本橋では、現在にも続く老舗が江戸時代に創業しています。三越となった「三井越後屋呉服店」、東急百貨店の前身の「白木屋」、乾物の老舗「八木長本店」、海苔の老舗「山本海苔店」、高級フルーツ店「千疋屋総本店」、刃物の老舗「日本橋木屋」、鰹節の老舗「にんべん」などがあります。日本橋付近に魚河岸があったことは、以前にも紹介した通りです。

日本橋が賑わいをみせたのは商業ばかりではありません。文化においても目覚ましい発展をみせます。江戸時代に起こった文化としては、京都や大坂を中心とした「元禄文化」、江戸を中心とした「化政文化」が知られるところですが、これらはいずれも町人が育んだ庶民の文化である点が大きな特徴です。庶民の間に文化が生まれるというのは、世界でも極めて稀な現象であったわけです。

 

日本橋では、江戸時代を代表する書籍や絵草子(えぞうし)、浮世絵などの出版物が数多く発刊され、「須原屋」や「鶴屋喜右衛門」、「伊場仙」などの版元が活躍していました。また、日本橋人形町界隈(堺町、葦屋町、木挽町)では江戸歌舞伎や人形浄瑠璃などが上演され、芝居見物の街としても賑わいをみせていました。その後、芝居小屋は天保12年(1841年)に浅草猿若町へと移転が命じられることになります。

 

江戸時代、市中に時を告げるための鐘が本石町三丁目(日本橋室町四丁目)に置かれていました。当時、江戸の9カ所に鐘が置かれていましたが、本石町が最初に置かれたものと言われています。この時の鐘は明治6年(1873年)まで使われていました。

おはようございます。日本でコロナ感染が広がってほぼ半年が過ぎました。この間、人々の生活や企業の経済活動の大きな転換が求められていたにもかかわらず、国民はおろか政府も地方自治体も変わろうとはしていません。やれテレワークだ、やれ時差出勤だ、ソーシャルディスタンスだとか言いながら口先ばかりで、意識改革など本質的なところでは旧態依然としたままで、相も変わらず先の見えない日本社会が続いています。今回のコロナ騒ぎや相次ぐ自然災害が何を意味しているのか、今我々は根本から問い直すべきではないでしょうか。

 

さて、本日は「江戸の迷子さがし」について紹介したいと思います。人がひしめく当時の世界最大の都市であった江戸では、その約2割の面積に人口の過半数を占める50万人以上が居住していました。街中では人出も多く、当然のように迷子がよく発生していたようです。

 

前回も紹介したように町名標示や表札もないわけですから、大人でも見知らぬ場所では切絵図に頼るか尋ねるかしなければ、容易に探し当てることはできません。増してや年端もいかぬ子供であればなおのこと、探し出すのは至難の業というわけです。今のような警察制度が整っているわけではなく、いったん迷子になると両親と再会するのは難しいと言われていました。

 

そこで考え出されたのが「迷子札」というものです。江戸の子供たちに住所や氏名を記した迷子札を身に付けさせ、どこの誰かを分かるようにしたのですが、それでも迷子がなくなることはありませんでした。

 

一方、迷子を保護する側も大変な負担を負うことになります。迷子を発見した町では、その子を保護して親を探すという暗黙の了解があり、各町に設けられていた自身番で親が見付かるまで養育する必要があったのです。もちろん養育費など公儀から出るはずもなく、町内の地主がお金を出し合って自身番の維持費を賄うことになっていたのです。それでも親が見付かれば良いのですが、親が見付からずにそのまま成長し、養子にもらわれていくような子もいました。

 

享保11年(1726年)、八代将軍・吉宗の時代、芝口に(港区新橋)掛札場が設けられます。掛札場とは町人向けの告知板を掲げる場所で、迷子のほか倒死、病人、水死者など身元不明者の年恰好や身に着けている物の特徴を書き出し、7日間掲載されるというもので、一定の効果を上げていたようです。南は品川、西は代々木、北は王子、東は中川辺りまでの広い地域の情報を掲載したとされています。

 

その後、安政4年(1857年)に迷子知らせの石標、一石橋(いちこくばし、いっこくばし)〔中央区で日本橋川に架かる橋〕の「満よひ子の志るべ」が設置されます。この石標の起こりは、関西の町人たちが保護した迷子の情報を掲載するために、お金を出し合って盛り場に1本の石を立てたことから始まったようです。

この仕組みが江戸にも伝わり、嘉永3年(1850年)、湯島天神境内に「奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)」という迷子を知らせる石柱「迷子石」が設置されます。この迷子石の右側には「たづぬる方」と記され、迷子を捜す側が子供の名前・年齢や特徴を書いた紙を貼り、左側には「志(し)らす類(る)方」と記され、保護している子供の特徴を書いた紙を貼って、双方情報を知らせ合いました。一石橋の「満よひ子の志るべ」では、「たづぬる方」と「志らす類方」の左右が逆のようです。浅草寺にも迷子石があったようですが、これが設置された時期ははっきりしていないとのことです。

おはようございます。天気も社会もすっきりしない日が続いています。これが今の日本、あるいは地球の状態を表しているのかと思うとやるせない気持ちなのですが、それでも何とかしようとあがいている毎日です。こんな状態の中でも明日は新たな委託事業の入札申請、現在請負中の委託事業の月次報告締切りと作業が続き、更には午後に2カ所の往訪と来客が1件あり、わずかながらでも稼ぎつつ、中国側との交流会議や経済界の訪中代表団派遣に向けた打合せをする次第です。周りの状況は変われど、忙しさは相変わらずです。

 

さて、本日は「江戸市街の姿」についてみてみたいと思います。江戸時代、江戸の市街には基本的に道路標識や町名標示といった類のものはありませんでした。また、武家も町屋も今のように表札などは付けていません。ですから、人の家や場所を訪ねる場合には切絵図と呼ばれる地図に頼るか、或いは近所の人に聞いて回るしかありませんでした。

 

基本的に江戸の町は、大名や旗本・御家人が住む武家地と町人居住地の町屋とでは一目で分かるようになっていました。武家地では塀や垣根がそれぞれの屋敷を囲み緑が多く、町屋は建物がひしめき合った形になっています。武家屋敷は江戸城を取り囲む形で内堀内や山手の高台に配置され、町屋は内堀の外側の低地帯、いわゆる下町に置かれていました。

町屋は道路に面して長方形に隙間なく建物が並んでおり、木戸によって仕切られた内側に多数の長屋が密集していました。その木戸には木戸番が居て、明け六ツ時(午前6時頃)には木戸を開け、夜の四ツ時(午後10時頃)には木戸が閉められていたことは、以前紹介した通りです。夜の江戸市街は、武家地は辻番が、町方では木戸番や自身番がそれぞれ見回りを行うだけで、灯火もほとんどみられず、静まり返っていました。

 

このように建物がひしめき合っているわけですから、一旦火事になると大変です。町ごと焼けてしまう大惨事になってしまう場合が多かったことは、本瓦版の火事シリーズでも紹介した通りです。

おはようございます。新型ウイルスの蔓延、豪雨による洪水・土砂崩れ、頻繁に起きる地震など、今日本を次々と想定を超える災害が発生し、経済的にも大きな打撃を受けている日本ですが、こうした複合災害の連鎖は日本ばかりではありません。アフリカから南アジアにかけては蝗害によって農作物が大きな被害を受け、中国南部でも洪水の被害が広がっています。これに追い打ちをかけるように米中対立が激化、北朝鮮をめぐる問題もより深刻化し、香港の民主化をめぐっては中国共産党政権に対する海外からの批判が日増しに大きくなっています。これがまだ今後訪れる衝撃の予兆であるとしたら、今我々にできることは何なのでしょうか?

 

さて、本日からは新たなシリーズとして、江戸の町についての情報をお届けしようと思います。これまで数々のシリーズを紹介してきた際にいろいろと地名が出てきました。東京に住んでいても、自宅周辺や職場、或いは食事、遊戯などでよく出入りする地域以外はよく分からず、話を聞いていても地理感がつかめないかと思います。そこで、今回は主な江戸の町についてまず紹介することで、今後いろいろなシリーズを展開した際に、大まかな位置関係が分かるのではないかと、企画したものです。

 

もちろん、以前にも紹介した通り、江戸は「大江戸八百八町」といわれてはいますが、実際にはその倍以上の町が存在していたようにそのすべてを取り上げるわけにもいきません。

 

http://azuma-geijutsu.com/info/azu-blog/2018/03/-20180313808.html

 

ですから、主だった江戸の地域とそこにある名所をいくつか紹介していくことにしたいと思います。そうした地域や名所は今でも残っているところが多く、東京にお住いの方は余暇に散歩がてら訪れて確認されてもいいでしょうし、地方の方は東京観光として訪れて土産話にしてみるのもいいでしょう。

私自身、コロナ騒ぎが一段落したら、実際にそうした町々を巡り歩いてみたいと思います。

おはようございます。今年の大雨は異常に長く続いています。九州ばかりではなく、岐阜や長野の一部にまで大きな被害をもたらしています。コロナウイルスの感染対策で非難する人たちの負担も増すばかりです。行政の資質が問われるところですが、想定外という言い訳を理由に手も足も出ない達磨状態です。明日は所用により、瓦版はお休みします。ご了承ください。

 

さて、長きに亘って紹介してきた「江戸の川シリーズ」でしたが、今回で川の話も最後にしようと思います。本日は「中村川(なかむらがわ)」について紹介したいと思います。中村川は、前回紹介した「大岡川」の支流で、大岡川二級水系に属する二級河川です。流域は神奈川県横浜市で東京湾に注いでいます。

 

横浜市南区の蒔田公園の脇辺りで大岡川から分流した中村川は、中村町付近の池下橋で根岸湾に流れる「堀割川(ほりわりがわ)」が分流します。中村川本流は山手地区の北側を流れて山下公園脇の山下橋で東京湾に注ぎ込みます。西の橋付近から下流の元町と山下町の間は「堀川(ほりかわ)」とも呼ばれています。現在、中村川の上には首都高速神奈川3号狩場線が走っていて、周辺には横浜中華街、山下公園や港の見える丘公園などの名所があり賑わっています。

 

中村川と大岡川本流に挟まれた低地が江戸時代初期まで釣り鐘状の入り江になっていたことは前回説明した通りで、「洲干湊(しゅうかんみなと)」と呼ばれていました。寛文7年(1667年)にそこが埋め立てられて「吉田新田」となったことも前回紹介した通りです。

 

その吉田新田に両側から水を引けるように大岡川から分流させて、新田の南端に人工的に作られたのが中村川です。下流部分の堀川とつながって今の形を形成しています。堀川も万延元年(1860年)に外国人居留地と日本人町との間に関門を作るために掘られた人工の河川です。新田内ではいくつかの河川とつながっていましたが、明治以降そのほとんどが埋め立てられ中村川だけが残っています。

おはようございます。昨日は急用により瓦版を更新できず、失礼しました。時期が時期だけに、突然の休刊もあり得ること、ご了承ください。それにしても今回の九州をはじめとする豪雨による被害が止まるところを知りません。これまで江戸の川シリーズでもお伝えしてきたように、治水・利水は為政者によって最大の課題であり、水を治めた者が国をも治めると言っても過言ではありません。現代の科学技術を以てしても大きな災害を免れないのに、徳川幕府は専門家を利用し、様々な工夫をしてよく治めたものだと、今さらながら感心しています。

 

さて、本日は「大岡川(おおおかがわ)」について紹介したいと思います。大岡川は神奈川県横浜市を流れ、横浜港に注ぐ大岡川二級水系に属する二級河川です。以前、東藝術倶楽部の勉強会で花見のシーズンに川のぼりを楽しんだことがありましたね。

 

大岡川の源流は、横浜市磯子区の円海山周辺に広がる氷取沢町(ひとりざわちょう)の氷取沢市民の森に発し、上流域の名称を「笹下川(ささげがわ)」として北に流れます。その後、港南区港南中央通り付近で港南区南部を流れる「日野川(ひのがわ)」と合流して大岡川となり、南区を北東に流れて中区で横浜港に注ぎ込みます。総延長12キロメートルで、そのうち二級河川指定部分は約8.5キロメートルです。流域面積は35.6平方キロメートルです。

 

昔から、笹下川より蒔田湾にかけては水運が利用されており、室町時代に鶴岡八幡宮の戦い〔大永6年(1526年)〕で焼失した鶴岡八幡宮の再建に際し、木材がこのルートを利用して運ばれたとの記録が残っています。江戸時代に入り17世紀半ば頃から、現在の南区から中区にかけて「吉田新田」の開拓事業が行われ、当時、「蒔田湾(まきたわん)〔大岡湾〕」と呼ばれていた入江が埋め立てられました。大岡川本流と南端の「中村川(なかむらがわ)」及びその間に数本の河川が残されました。横浜港開港後には、それら数本の河川は埋め立てられ、跡地には公園や首都高速道路として利用されています。

勉強会でも使われたように大岡川沿岸では桜並木が有名ですが、かつては小田原北条家が梅の植林を奨励しており、笹下城址などには広大な梅林が広がっていました。

おはようございます。この週末の九州南部を襲った豪雨による球磨川の氾濫が熊本県に大きな被害をもたらしています。線状降水帯が次々に同地域を通過したのが原因で、この先も記録的な豪雨が鹿児島県など九州南部を襲うとのことで警戒が必要です。こうした河川の氾濫や土砂災害は、豪雨が続くことによって起きる自然災害と捉えがちですが、一方で人の手による開発が進むことで、土地の保水力が弱まることが原因の一つとも考えられています。こうした被害は日本全国どこでも起こり得るわけで、今こそ自然との共生を考える良い機会なのだと思います。

 

さて、本日は「神奈川(かながわ)」ついて紹介しようと思います。神奈川県の名称となっている神奈川の由来については諸説あります。神奈川県の説明によれば、「かながわ」の名は、昔は「神奈河」、「神名川」、「上無川」などとも書かれ、武蔵国久良岐郡(くらきぐん)〔横浜市神奈川区〕を指し、古くから陸上・海上交通の重要なところで、幕末の横浜開港に伴い、安政6年(1859年)に「神奈川奉行所」が置かれ、明治元年(1868年)9月に神奈川県が置かれることになったということです。

 

「かながわ」という地名が歴史上最初に文献に登場するのは鎌倉時代のことです。文永3年(1266年)5月2日の北条時宗下文に「鶴岡八幡宮領武蔵国稲目・神奈河両郷(かながわごう)」とあります。神奈河郷自体は武蔵国でしたが、鶴岡八幡宮は相模国鎌倉にあります。神奈河郷は今の横浜市神奈川区南部から西区北部の岡野・軽井沢・浅間町辺りまでで、ちょうど帷子川の北岸であったと考えられています。神奈河郷は、後に神奈川宿や神奈川湊となって賑わいをみせることになります。

神奈川の地名の由来については、当然「川」と密接な関係があるとされています。諸説あるなかで代表的なものを挙げると以下の通りになります。

 

〔金川〕

かつて帷子川は鉄分を多く含む土砂が流れていた。

 

〔上無川〕

水量が少なく水源地が定かではないために「上」が「無い」という意味の「かみなし川」が変化したもの。

 

〔空川、枯れ川〕

水量が少ない「空(から)の川」、或いは「枯れ川(かれかわ)」が変化したもの。

 

〔韓川〕

朝鮮半島から来た渡来人(韓人)が多く住んでいたという意味から「韓川(からかわ)」と呼ばれていた地名が変化したもの。

 

〔曲川〕

片平川が湾曲していた地の北岸に郷があったことから「曲がった川」という意味で「曲川(かながわ)」と呼ばれたというもの。

 

これらの説のうち、金川と曲川の説からすると、神奈川は帷子川のことを指していたことになります。一方、上無川、空川又は枯れ川の説では、水量が多く水源もはっきりしている帷子川では当てはまりません。一説に、現在の京急本線東神奈川駅の近くを流れていた長さ300メートルほどの小川がかつて流れており、これが神奈川と呼ばれていたとの話もあります。現在は道路になっているようですが、一度訪れてみたいと思っています。

おはようございます。東京での新型コロナウイルス感染確認者が再び100人を超えました。こうなることは分かり切っていたにもかかわらず、経済を優先して密な接触を再開した意識の低さが招いた結果だともいえましょう。幸いにしてまだ重症者の数が少なく、今のところ海外で起きた医療崩壊になる様相はみせていませんが、高齢者や既往症を抱えている人に感染すれば深刻な状況に陥ることは想像に難くありません。化学製品や放射能によって著しく抵抗力が落ちている現代人にとっては致命的な事態になっている現実をもっと知るべきです。

 

さて、本日は江戸から少し離れてしまいますが、「帷子川(かたびらがわ)」について紹介したいと思います。帷子川は神奈川県横浜市を流れる二級河川で、帷子川二級水系に属し、延長は17キロメートル、流域面積は57.9平方キロメートルに達します。

 

帷子川の水源は横浜市旭区若葉台にあり、保土ヶ谷区を南東に流れ、西区のみなとみらい地区と神奈川区のポートサイド地区に跨る辺りで横浜港に注いでいます。もともとは蛇行の激しく水害の多い暴れ川でしたが、田畑の灌漑用水として利用されていました。戦後は本格的な治水事業が行われ、川の直線化や大規模な護岸工事が進められ、現在では帷子川親水緑道等の親水公園や川辺公園などが整備されています。

 

平安時代には「袖ケ浦」と呼ばれた入江が今の保土ヶ谷区東端部まで湾入しており、帷子川の河口は「帷子湊(かたびらみなと)」と呼ばれ栄えていました。江戸時代に入ると、河口の船着場を利用して薪炭などの物流拠点となりますが、宝永4年(1707年)の富士山の大噴火による降灰で川筋が埋まり、河口が下流へと移動しました。享保16年(1732年)に河川の改修工事が行われたとの記録があり、天保4年(1833年)から文久3年(1867年)にかけて岡野新田や平沼新田などの開発が行われ、河口も現在の平沼橋辺りに移ります。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結による横浜開港以降、近代化の波が押し寄せ、八王子からの「絹の道」の開通とともに、絹のスカーフ輸出のための染色・捺染(なっせん)工場が帷子川周辺に集まるようになりました。

 

帷子川の名称の由来には諸説あり、一説には保土ヶ谷区一帯は片方が山で、もう片方の北側の河口側がなだらかな田畑で、片側だけが平地という「片平(かたひら)」と呼ばれていた地名が川の名前として使われたと言われています。そもそも「帷子」とは、装束をつけるときに汗取りととして着たものを指し、材質は生絹(すずし)や練り絹(ねりぎぬ)、麻糸で織った布でした。それが江戸時代には、麻や苧麻(からむし)で織った布で仕立てた単衣(ひとえ)のことを帷子と呼んでいました。「かたびらの衣纏てカッパ住む」、帷子川にはカッパ伝説も残っているようです。

 

帷子川には二俣川、中堀川、新井川、くぬぎ川などの支流があり、派川として旭区白根町付近から分水して神奈川区で新田間川(あらたまがわ)に合流する「帷子川分水路」があります。新田間川や石崎川、幸川なども帷子川の派川とされています。

 

本日は画像の添付がうまくいきません。Hotmailはこうした事態が常に生じる欠陥メールですが、中国でのやり取りができる数少ないものですので、使わざるを得ない状況である旨、ご理解ください。

おはようございます。昨日は急用で瓦版がお送りできず失礼しました。明日もまた所用で更新できませんので、ご了承ください。それにしても今年はコロナ禍の中で半年が過ぎてしまいました。今年はこのまま何もできないまま1年が終わってしまうのではないかと、懸念されるところですが、それでも人は生きていかなければならないし、経済を動かしていかなければなりません。ウイルスとどう付き合いながら経済を回すのか、国の指導者の力量が試されるところです。

 

さて、本日は「烏山川(からすやまがわ)」について紹介したいと思います。烏山川は、前回紹介した「北沢川」と同じ目黒川の支流で、東京都世田谷区をかつては流れていた二級河川です。

 

源流は世田谷区北烏山付近とされ、高源院にある弁財天堂の池がその一つとされています。烏山付近から流れ出た水は南東に流れ、世田谷区三宿の池尻大橋駅の西側で北沢川と合流して目黒川になることは、前回紹介した通りです。流路延長は11.7キロメートル、1970年代以降ほぼ全面的に暗渠化され、そのほとんどが「烏山幹線」と呼ばれる下水道に転用されました。近年は暗渠部分の緑道化が進められ、「烏山川緑道」として整備されています。

烏山川と北沢川は現在ともに下水道となっているため、この二つの流れは目黒川の開渠部分の少し上流から下水道管を通して大田区にある東京都下水道局森ケ崎水再生センターに送られているようです。ですから、大雨などの際に水量が大幅に増加したときにのみ、溢れた水が目黒川に直接放流されているとのことです。

 

一方、常時目黒川に流れている水の方はといえば、これは新宿区にある東京都下水道局落合水再生センターで高度処理された下水の水を更に浄化した上で、目黒川の開渠部分の手前で目黒川に放流されているようです。東京の清流活動は驚くべき進化を遂げているようです。