おはようございます。日本でコロナ感染が広がってほぼ半年が過ぎました。この間、人々の生活や企業の経済活動の大きな転換が求められていたにもかかわらず、国民はおろか政府も地方自治体も変わろうとはしていません。やれテレワークだ、やれ時差出勤だ、ソーシャルディスタンスだとか言いながら口先ばかりで、意識改革など本質的なところでは旧態依然としたままで、相も変わらず先の見えない日本社会が続いています。今回のコロナ騒ぎや相次ぐ自然災害が何を意味しているのか、今我々は根本から問い直すべきではないでしょうか。
さて、本日は「江戸の迷子さがし」について紹介したいと思います。人がひしめく当時の世界最大の都市であった江戸では、その約2割の面積に人口の過半数を占める50万人以上が居住していました。街中では人出も多く、当然のように迷子がよく発生していたようです。
前回も紹介したように町名標示や表札もないわけですから、大人でも見知らぬ場所では切絵図に頼るか尋ねるかしなければ、容易に探し当てることはできません。増してや年端もいかぬ子供であればなおのこと、探し出すのは至難の業というわけです。今のような警察制度が整っているわけではなく、いったん迷子になると両親と再会するのは難しいと言われていました。
そこで考え出されたのが「迷子札」というものです。江戸の子供たちに住所や氏名を記した迷子札を身に付けさせ、どこの誰かを分かるようにしたのですが、それでも迷子がなくなることはありませんでした。
一方、迷子を保護する側も大変な負担を負うことになります。迷子を発見した町では、その子を保護して親を探すという暗黙の了解があり、各町に設けられていた自身番で親が見付かるまで養育する必要があったのです。もちろん養育費など公儀から出るはずもなく、町内の地主がお金を出し合って自身番の維持費を賄うことになっていたのです。それでも親が見付かれば良いのですが、親が見付からずにそのまま成長し、養子にもらわれていくような子もいました。
享保11年(1726年)、八代将軍・吉宗の時代、芝口に(港区新橋)掛札場が設けられます。掛札場とは町人向けの告知板を掲げる場所で、迷子のほか倒死、病人、水死者など身元不明者の年恰好や身に着けている物の特徴を書き出し、7日間掲載されるというもので、一定の効果を上げていたようです。南は品川、西は代々木、北は王子、東は中川辺りまでの広い地域の情報を掲載したとされています。
その後、安政4年(1857年)に迷子知らせの石標、一石橋(いちこくばし、いっこくばし)〔中央区で日本橋川に架かる橋〕の「満よひ子の志るべ」が設置されます。この石標の起こりは、関西の町人たちが保護した迷子の情報を掲載するために、お金を出し合って盛り場に1本の石を立てたことから始まったようです。
この仕組みが江戸にも伝わり、嘉永3年(1850年)、湯島天神境内に「奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)」という迷子を知らせる石柱「迷子石」が設置されます。この迷子石の右側には「たづぬる方」と記され、迷子を捜す側が子供の名前・年齢や特徴を書いた紙を貼り、左側には「志(し)らす類(る)方」と記され、保護している子供の特徴を書いた紙を貼って、双方情報を知らせ合いました。一石橋の「満よひ子の志るべ」では、「たづぬる方」と「志らす類方」の左右が逆のようです。浅草寺にも迷子石があったようですが、これが設置された時期ははっきりしていないとのことです。
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