おはようございます。梅雨もなかなか明けず、今週もすっきりしない日が続きそうです。関東甲信地方の梅雨明けは、7月21日頃が平均的だとのことですが、今年はもう少し後になりそうです。ちなみに昨年は7月24日頃だったようです。新型コロナウイルス感染が再び全国的に広がりをみせるなか、さて今年の夏はこの先どのような事象が起きるのでしょうか?
さて、 本日からはいよいよお江戸の町々を紹介していきたいと思います。先ずは「日本橋界隈」について紹介しようと思います。これまでも紹介してきた通り、徳川家康が江戸の町を築いた際に五街道の起点としたの〔慶長6年(1604年)〕が日本橋で、現在でも国道1号線をはじめとする首都東京から地方に向かう主要道路の出発点ともなっています。
日本橋は道路の起点となったばかりではありません。前回のシリーズでも紹介したように、江戸幕府は物資供給のために「水の道」、すなわち河川や堀を整備しました。中でも日本橋川、京橋川、三十間堀、八丁堀等の沿岸には大きな河岸が設けられ、水運の大動脈として江戸の暮らしになくてはならない存在となっていました。
街道の起点や水運の拠点とされた日本橋ですから、当然のことながら周辺は大きな賑わいをみせることになります。家康が江戸入府後に最初に町人地として開発したのが、この日本橋界隈でした。この日本橋界隈は、古くは武蔵国豊嶋郡に属する江戸郷前嶋村と呼ばれる地域だとされています。江戸時代以降、日本橋通り(東海道、中山道)や本町(ほんちょう)通り沿いには、間口数間(1間は1.81メートル)、奥行20間(約36メートル)の宅地が町人に割り当てられ、彼らの居住地となります。路地に面した表通りには店舗が連なる町人長屋、物売りや露店などで活気溢れる街として発展したのです。「日本橋、竜宮城の港なり」と当時の様子が川柳にも歌われています。
日本橋では、現在にも続く老舗が江戸時代に創業しています。三越となった「三井越後屋呉服店」、東急百貨店の前身の「白木屋」、乾物の老舗「八木長本店」、海苔の老舗「山本海苔店」、高級フルーツ店「千疋屋総本店」、刃物の老舗「日本橋木屋」、鰹節の老舗「にんべん」などがあります。日本橋付近に魚河岸があったことは、以前にも紹介した通りです。
日本橋が賑わいをみせたのは商業ばかりではありません。文化においても目覚ましい発展をみせます。江戸時代に起こった文化としては、京都や大坂を中心とした「元禄文化」、江戸を中心とした「化政文化」が知られるところですが、これらはいずれも町人が育んだ庶民の文化である点が大きな特徴です。庶民の間に文化が生まれるというのは、世界でも極めて稀な現象であったわけです。
日本橋では、江戸時代を代表する書籍や絵草子(えぞうし)、浮世絵などの出版物が数多く発刊され、「須原屋」や「鶴屋喜右衛門」、「伊場仙」などの版元が活躍していました。また、日本橋人形町界隈(堺町、葦屋町、木挽町)では江戸歌舞伎や人形浄瑠璃などが上演され、芝居見物の街としても賑わいをみせていました。その後、芝居小屋は天保12年(1841年)に浅草猿若町へと移転が命じられることになります。
江戸時代、市中に時を告げるための鐘が本石町三丁目(日本橋室町四丁目)に置かれていました。当時、江戸の9カ所に鐘が置かれていましたが、本石町が最初に置かれたものと言われています。この時の鐘は明治6年(1873年)まで使われていました。
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