東藝術倶楽部瓦版 20200727:【江戸の町その04】江戸児の産声おきやあがれとなき-「神田界隈」

おはようございます。先週は立て続けに早朝から急用が入り、瓦版の更新ができず失礼しました。それにしても新型コロナウイルス感染の拡大が止まりません。そんな中、我々の食卓にも大きな危機が訪れようとしています。長梅雨の影響で国内の農作物の生育が悪く、それに加えて水害で被害を受けた田畑も少なくありません。農産物が高騰しているかと思えば、今度はこれから旬を迎える秋のサンマの不漁が近年は続いており、今年もサンマが高嶺の花になりそうとのことです。海外ではバッタによる農作物への被害も起きていて、食糧難は世界中に拡大するかもしれません。農家でもせっかく育てた農作物の盗難という事態にも備えなければならず、ますます住み難い世の中になりそうです。

 

さて、本日は「神田界隈」を紹介しようと思います。神田は東京都千代田区の北東部にある地域で、現在でも町名が残っていることは皆さんご存知の通りです。神田神保町は昔から知られた本屋街で、私などは学生時代からよくぶらついた馴染みのあるところの一つです。

 

元々は現在の大手町にある平将門の首塚付近から駿河台(神田山)にかけての一帯を指していましたが、江戸城と江戸城下の整備後に常盤橋から浅草橋にかけての奥州往還沿いに作られた本町通りの北側を指すようになりました。神田山は江戸城下整備のための埋め立て用に削り取られ、現在は神田駿河台として大学や予備校など学生の街になっています。

 

「江戸児の産声おきやあがれとなき」。江戸城下の建設にあたっては、商人町としての日本橋に続いて、職人町として神田が置かれることになりました。鍛冶屋、紺屋、材木屋、旅籠など同業者をまとめた町づくりが行われ、仲間意識の強い地域社会が生まれたと言われています。この職人気質が「江戸っ子」を生み出すわけですが、生粋の江戸っ子に言わせると、江戸の下町は京橋・日本橋地域と神田だけだそうです。江戸が発展するに従って、その考えも変わっていったようですが、今でも江戸初期の趣が感じられるのは、こうした地域なのかもしれません。

神田は、神田川を挟んで江戸城側の内神田と城外側の外神田に分かれます。いずれも武家屋敷と町人居住地が入り混じっていましたが、駿河台辺りは大名や旗本の屋敷地で閑静な場所でした。神田川沿いには鎌倉河岸、佐久間河岸などの河港があり、江戸町民の生活物資が集まり、多町(たちょう)には青物市場が設けらえていました。

 

神田と言えば、何といっても「神田明神(かんだみょうじん)」が有名です。神田川北側の外神田に位置し、江戸時代から庶民に親しまれてきました。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年7月27日 08:06に書いたブログ記事です。

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