東藝術倶楽部瓦版 20200730:【江戸の町その05】伊勢神宮の御田を鎮守-「神田明神」

おはようございます。一昨日、昨日と所用により瓦版をお送りできず失礼しました。我が職場も今月末で移転となり、8月から新たな事務所での執務となります。引っ越して4年程しか経っていないのですが、建物の個人オーナーが亡くなったことで建物自体が不動産屋の所有となり、オフィスビルからマンションに建て替えられることから、急遽追い出される形となったものです。移転先は港区六本木一丁目で、私としては、通勤は直線距離ではかなり近くなるものの、地下鉄では複雑な乗り換えとなるものだから、結果として路線バスで通うことにしています。とはいえ、日本全体で1日当たりのコロナ感染者がついに1,000人を超えるという異常事態の中、また在宅勤務の日々が増えそうです。明日は事務所移転準備のため、またまた瓦版を休刊とさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は前回の神田界隈を紹介したことにちなんで、「神田明神(かんだみょうじん)」について紹介していきたいと思います。「神田」の名前の大本となっている神田明神は、東京都千代田区外神田に鎮座する神社で、正式名称は「神田神社」となっています。旧准勅祭社12社のうちの東京十社の一つにもなっていますが、これについては後日詳細に紹介したいと思います。

 

社伝によると、神田明神は天平2年(730年)に武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、「大己貴命(おおなむちのみこと)」〔大黒、縁結び〕を祖神として祀ったのが始まりとされています。神田とは伊勢神宮の御田(おみた)のことを指し、その神田を鎮守するために創建されました。当初は「神田ノ宮」と呼ばれていました。また延慶2年(1309年)には、承平5年(935年)の平将門の乱で敗死した将門を「平将門命(たいらのまさかどのみこと)」〔除災厄除〕として相殿神としたそうです。

慶長8年(1603年)、江戸城増築に伴って神田明神は神田山(駿河台)に、さらに元和2年(1616年)には現在の場所に、江戸城の艮(うしとら)の方角・鬼門の守護神として遷座されました。江戸時代、神田明神で行われる「神田祭」は江戸三大祭りの一つに数えられ、山車が将軍上覧のために江戸城中に入ったことから「天下祭」とも呼ばれていました。江戸時代初期に建てられた桃山風の豪華な社殿は、天明2年(1782年)に権現造りの社殿が造営されましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失し、現在は鉄筋コンクリート構造の権現造りを模した社殿が再建されています。

 

神田ノ宮が神田明神と呼ばれるようになったのは江戸時代です。周辺の町名にも神田明神を冠したものが多くありました。野村胡堂の代表作『銭形平次捕物控』の主人公・銭形平次が住んでいたのが神田明神下の長屋という設定で、神田明神内の本殿右手横に「銭形平次の碑」があります。

 

明治元年(1686年)に准勅祭社に指定され、明治4年(1871年)に正式な社号が「神田神社」に改められました。明治7年(1874年)に明治天皇が行幸するにあたり、天皇の逆臣であった平将門が祀られていることが問題視され、将門が祭神からはずされ、代わりに茨城県の大洗磯前神社から「少彦名命(すくなひこなのみこと、恵比寿)」〔商売繁盛〕が勧請されました。戦後の昭和59年(1984年)に、将門は本社祭神に復帰しました。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年7月30日 08:11に書いたブログ記事です。

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