2020年8月アーカイブ

おはようございます。8月も今日で終わり、明日から9月です。先週末に安倍首相の辞任の発表があり、政府内も大騒ぎの中、次の総裁選びに火花が散り始めています。いろいろな人や派閥の思惑、利害関係が絡み合い、どのような体制になるのかは分かりません。コロナ騒ぎも収束が見通せず、経済がボロボロのまま、戦後最長の長期政権となった安倍首相の急な退任というのはどうかとも思いますが、病気が原因というのであれば仕方ありません。ただ前例が前例なので、どうも疑問が残るところです。

 

さて、本日は「深川界隈(ふかがわかいわい)」について紹介しようと思います。深川は、現在の行政区分でいえば東京都江東区の西側に位置する隅田川左岸の低湿地一帯を指します。今でも深川一丁目及び深川二丁目とこの地名は残っていますが、一般に深川はもう少し広い地域を指しています。

 

河川が縦横に走る深川は江戸時代に造成された「夢の島」で、もともとは遠浅の海浜に小島が点在する地域でした。慶長年間(1596年~1615年)、江戸がまだ町造りを始めたばかりの頃、摂津国(大阪府)から深川八郎右衛門(ふかがわはちろうえもん)ら6名がここに移住し、小名木川北岸一帯を開拓します。八郎右衛門の名字を村名としたのが、この地域を深川と呼ぶようになった由来です。

 

江戸初期には、深川は漁師町でしたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火以降に本格的な開発が始まり、万治2年(1659年)に両国橋が架けられたことで急速に都市化が進みました。火災の焼土や市中のゴミが造成の埋め立てに使われたようです。富岡にある永代寺の門前には料理屋や屋台が並ぶ繁華街となり、岡場所などもできて、信仰と行楽の場所として賑わうようになりました。特にこの地が一躍繁華街に変わるきっかけとなったのが「深川芸者」の存在で、江戸の辰巳(たつみ)の方角(東南部)に位置していたころから、俗に「辰巳芸者」と呼ばれていました。

 

深川は水運が便利であったことから、幕府の指示で貯木場である「木場」が移転してきます。材木商として財を成した紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)や奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)も一時居を構えるなど材木業が集中し、深川木場としも繁栄していきました。

深川の名物といえば、アサリなどの貝類とネギなどの野菜を煮込んだ汁をご飯にかけたり、炊き込んだりした料理の「深川めし」が有名です。古くは深川の漁師が仕事の合間に食べるぶっかけ飯がそのルーツだともいわれています。江戸時代は主にバカガイが使われて、アサリを使うようになったのは明治時代になってからだそうです。

 

明治11年(1878年)、「郡区町村編制法」に基づき東京府15区制が発足し、深川一帯は「深川区」となりました。深川一帯が江東区となるのは、戦後になってからです。

おはようございます。暑い日が続きます。暦の上では処暑ですから、暑さが残るのは分かるのですが、それにしても異常な蒸し暑さです。この暑さも、急に寒さに変わる日がくるのかもしれません。四季折々の季節を感じることのできた日本の気候も、変わりつつあるように思えます。地球の憤りを感じざるを得ません。

 

さて、本日も浅草寺について紹介を続けていきたいと思います。浅草寺の境内には、多くの見どころがあります。

 

浅草寺の表参道の入口にある山門は、皆さんもご存知の「雷門(かみなりもん)」です。正式には「風雷神門(ふうらいじんもん)」という名称です。この門に掲げられた大きな提灯の表側には「雷門」と書かれていますが、裏側には正式名称の「風雷神門」と書かれています。この門は朱塗りの切妻造の八脚門で、向かって右の間に風神像、左の間に雷神像が安置されています。門の中央には高さ3.9メートル、直径3.3メートル、重さ約700キログラムの提灯が吊り下げられています。

 

天慶4年(941年)、安房国の太守・平公雅(たいらのきみまさ/きんまさ)が武蔵国への配置換えを祈願し、翌天慶5年(942年)にその願いが叶い、天下泰平と五穀豊穣を願って寄進をした頃に、雷門に相当する門が建てられたとされています。「風の神雷門に居候」。江戸時代の川柳に詠まれていますが、浅草寺の山門がいつ頃から雷門と呼ばれるようになったのかはよく分かりません。寛政7年(1795年)に雷門と書かれた提灯が屋根職人らによって初めて奉納されたと伝えられています。

 

雷門はたびたび火災により焼失しており、江戸時代だけでも2度建て替えられています。慶応元年(1865年)の火災で焼失後は仮設の門が時折建てられていましたが、常設の門が建てられたのは昭和35年(1960年)になってからです。パナソニックの創始者である松下幸之助が病気平癒の報恩のために寄進したもので、鉄筋コンクリート造のものとなっています。

雷門を入ると、「宝蔵門(ほうぞうもん)」に至るまで「仲見世通り(なかみせどおり)」が続きます。これが浅草寺の表参道で、長さは約250メートル、両側には土産物や食べ物を売る商店が立ち並んでします。仲見世の成り立ちについては、前回紹介したので省略します。

 

仲見世通りを抜けた先にあるのが「宝蔵門」です。門の左右に金剛力士像(仁王像)を安置していたことから、かつては「仁王門」と呼ばれていました。2体の金剛力士像の向かって左(西)側が阿形(あぎょう)像、右(東)側が吽形(うんぎょう)像となっています。門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられています。

 

浅草寺の本尊の聖観音像を安置しているのが「本堂」で、「観音堂」とも呼ばれています。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失、現在の本堂は昭和33年(1958年)に再建された鉄筋コンクリート造のものです。

 

五重塔は、もともとは天慶5年(942年)に平公雅が建立した三重塔であったと言われています。焼失を繰り返した後に、慶安元年(1648年)に五重塔として建立され、本堂と同様に東京大空襲で焼失、現在のものは昭和48年(1973年)に再建されたものです。

 

東京大空襲でも焼失せず、焼け残ったのが本堂の東向きに建つ「二天門(にてんもん)」です。門の左右に四天王の「持国天」と「増長天」が安置されている切妻造の八脚門です。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮への門として、元和4年(1618年)に建てられたものですが、東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建はされていません。

 

このほかにも多くの見どころがありますが、キリがないので、この辺りで紹介を終わりにしたいと思います。

おはようございます。朝から所用続きで瓦版の更新ができず恐縮です。海外への渡航がストップしており、中国に行くにも行けずの状態が続いています。現地職員からの情報やネット、文献等による情報分析では、やはり限界はあるものの、できる範囲で毎日調査研究を悶々と続けている状態です。中国へはもう7カ月以上も行っていない異常事態の中で、どう正しい情報をより正確な形で世の中に伝えるか、葛藤の日々が続いています。

 

さて、本日は前回に続いて江戸時代以降の浅草寺について紹介したいと思います。

 

天正18年(1590年)に江戸に入府した徳川家康は、伝統ある浅草寺を祈願所と定めて寺領500石を与えます。徳川幕府の手によって江戸の町づくりが行われ、人口が過密になっていくことで、江戸では火事が絶えなくなったことは以前にも紹介した通りですが、こうした頻発する大火災によって浅草寺の伽藍もたびたび焼失しました。寛永8年(1631年)、寛永19年(1642年)と相次いで焼失したことから、慶安元年(1648年)に五重塔を、そして翌慶安2年(1649年)に本堂を再建するために、3代将軍・家光は支援を行いました。このように、浅草寺は徳川将軍家からも重んじられ、観音霊場として多くの参詣者が集まってきました。

貞享2年(1685年)、浅草寺の表参道に現在の仲見世の前身となる商店街が設けられます。これは、近隣の住民が浅草寺境内の清掃を役務として課す見返りとして店の開業を許したものでした。江戸時代中期には、境内の西側の奥に通称「奥山」と呼ばれる場所で大道芸が行われるようになります。更に天保13年(1842年)から翌年にかけて、江戸三座(中村座、森田座、市村座)と呼ばれた芝居小屋が浅草聖天町(あさくさしょうでんちょう)〔猿若町〕に移転してきます。こうしたことで、浅草は庶民の娯楽の町として大きく賑わっていきました。

 

明治6年(1873年)に浅草寺の境内が公園地に指定され「浅草公園」となり、明治18年(1885年)には表参道両側の商店街が近代的なレンガ造りの建物に建て替えられます。明治23年(1890年)には商業施設と展望台を兼ねた「凌雲閣」(浅草十二階)が建てられています。大正12年(1923年)の関東大震災では、境内は一部建物が延焼するだけで済んだものの、昭和20年(1945年)の東京大空襲では本堂や五重塔などが焼失してしまいました。

 

戦後直後に浅草が一時衰退する時期もありましたが、今では下町を代表する東京の観光スポットして多くの内外からの観光客で賑わっています。

 

まだまだ浅草寺の紹介は続きます。

おはようございます。先週は業務が立て込み、瓦版の更新が思うようにできませんでした。コロナ禍においても仕事があるのは嬉しいのですが、いくら細々と稼いでもそれ以上のカネが出ていきます。このような苦労をしない限り、その実感はいつまでたっても味わえません。下々の心知らずば、上に立つことはできません。今の日本の体たらくは、上に立つ資格のない者が上にたっているからです。

 

さて、本日は浅草の名所「浅草寺(せんそうじ)」について紹介してみましょう。浅草が門前町として栄える起源となった浅草寺は、東京都台東区浅草にある東京都最古の寺だと言われています。山号は「金龍山(きんりゅうざん)」、本尊は「聖観世音菩薩(しょうかんのんぼさつ)」です。聖観音は「六観音」の一尊であり、天台宗と真言宗で属する観音が異なりますが、これについてはまた改めて説明したいと思います。

 

浅草寺は、もともとは天台宗に属していましたが、昭和25年(1950年)に独立して「聖観音宗」の総本山となりました。聖観音菩薩像を本尊とすることから、一般には「浅草観音」或いは「浅草の観音様」などと呼ばれ、地元の人たちに親しまれているばかりでなく、多くの内外からの観光客で賑わっています。江戸三十三箇所観音霊場の最初の札所であり、都内で唯一の坂東三十三箇所観音霊場の13番目の札所にもなっています。

 

「浅草寺縁起」によると、推古天皇36年(628年)、宮戸川(隅田川)で檜前浜成(ひのくまのはまなり)と竹成(たけなり)兄弟が漁をしていた際に仏像が網にかかり、これが浅草寺の本尊となる聖観音菩薩像でした。この兄弟の主人であった土師中知(はじのなかとも)〔土師真中知(はじのまなかち)〕はこの観音像を拝し、出家して自宅を寺として供養します。これが浅草寺の始まりだとされています。

大化元年(645年)、勝海上人(しょうかいしょうにん)が夢告に従い本尊を秘仏と定め、その後、天安元年(857年)〔天長5年(828年)との説もあり〕に延暦寺の僧・円仁(えんにん)〔慈覚大師(じかくだいし)〕が来寺して秘仏の代わりに拝むための「お前立ち(おまえだち)」の観音像を造ったとされています。このため、浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称しています。天慶5年(942年)、安房守・平公雅(たいらのきみまさ)が武蔵守に任じられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(宝蔵門)などはこの時に創建されたと言われています。

 

本尊の聖観音菩薩像については、秘仏であるがためにその実体は明らかではないのですが、高さ1寸8分(約5.5センチメートル)の金色の像と伝えられています。一説に、浅草寺創建の100年ほど前に、現在の埼玉県飯能市岩淵にある成木川沿いにあった岩井堂に安置されていた観音像が大水でお堂ごと成木川に流され行方不明となり、これが檜前兄弟に拾われた聖観音像だとの話があります。成木川は入間川、荒川を経て隅田川につながっており、後に仏像発見の話を聞いた上流の人々が返還を求めたが、叶わなかったとのことです。

 

歴史の文献上での浅草寺の初見は鎌倉時代の『吾妻鏡』です。承久5年(1181年)の鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し浅草から宮大工を呼び寄せ、建久3年(1192年)には鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日の法要が営まれた際に、浅草寺の僧が参加したとの記述があります。また、後深草院が正応3年(1290年)に浅草寺を参詣した時の様子も描かれています。

 

江戸時代以降の浅草寺の紹介は、次回に続きます。

おはようございます。コロナ禍と言われる中、オンラインでの面談や会議が多くなっています。特に日本にいる外国人との面談はいずれもオンラインで、昨日は中国大使館の経済参事官との意見交換、先週は米国大使館の経済書記官との意見交換をしました。事務所が移転して、中国大使館も米国大使館も歩いて行ける距離にあるのに、何となく違和感を覚えるのは私だけでしょうか。

 

さて、本日は「浅草界隈」について紹介していきたいと思います。浅草は上野と同じように、現在の東京都台東区にある地域です。台東区の東半分を占め、江戸・東京を代表する下町となっています。

 

浅草が浅草寺の門前町として昔から栄えていたことは周知のことですが、その歴史は思っている以上に古く、推古天皇36年(628年)に宮戸川(みやとがわ)〔隅田川〕で檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が漁をしていたところ、仏像が網にかかり、これを本尊の「聖観音(しょうかんのん)像」として祀ったのが浅草寺の始まりとされています。浅草寺については、別途詳細に紹介しようと思います。

 

この浅草一帯は、太古の時代は浅草台地という小高い丘で、現在の待乳山(まつちやま)、弁天山、蔵前、鳥越神社付近から陸地が進んだものとみられています。隅田川の河口近くで海産物にも恵まれる一方、やや高台であることから官道が通り災害からも避難しやすい土地であったために、町としての発展も早くから進みました。

鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』には、養和元年(1181年)の条に、鶴岡八幡宮造営のために武蔵国浅草の宮大工を招いたと記されているのが、浅草の地名が史料に初見されるもので、地名の由来には諸説あります。草深い武蔵野で「草が浅く茂っていた」という地形描写説、「海を越す」という意味のアイヌ語「アツアクサ」からきたという説、「聖者のいる場所」を意味する「アーシャ・クシャ」というチベット語説などです。

 

浅草は門前町であると同時に、隅田川の河口であることから江戸湊や品川湊と並んで武蔵国の代表的な港でもあったと考えられています。港の場所は現在の台東区橋場の「石浜」、今戸町の「今津」です。江戸時代以前には隅田川が武蔵国と下総国との境目であり、この地域に石浜城が築かれていたとも言われています。

 

江戸時代に入り、浅草御蔵(蔵前)に米蔵が設置されると、米を現金に替えてくれる「札差(株仲間)」という商人が登場するとともに、米蔵を警備する下級役人が配置され、賑わいをみせることになります。両国を中心に蔵前商人が店を構え、浅草には人、物、金が集まってきました。明暦3年(1657年)の明暦の大火後には日本橋芳町(人形町)から吉原遊郭が移転し新吉原遊郭が築かれ、天保12年(1841年)の人形町の火事の後には江戸市中の芝居小屋が浅草に集められ、芝居町として猿若町が形成されました。

 

当時、武士とともに芝居小屋や吉原へ出入して豪遊することは「粋(いき)」を争う江戸町人の憧れでもあり、こうした町人は「通人(つうじん)」と言われ、中でも「十八大通」と呼ばれた人たちがいて、その多くは札差連中だったとのことです。明治以降、新たな演芸場や劇場が建てられ、東京の文化の発信地としてさらに発展していきました。

 

浅草の名物として「浅草海苔」が知られるところですが、江戸時代にはすでに他所で製品化したものを浅草海苔としてブランド化して売られていたようです。浅草で実際に海苔が採れていたのは室町時代末期までで、時代が下がるにつれて下流に移り、江戸時代中期には大森辺りが海苔の産地だったようです。

おはようございます。今朝の空の雲をみると秋が近づいているような気もするのですが、今はまさに夏本番という暑さです。コロナ対策でマスクも外すわけにもいかず、建物の出入にはアルコール消毒は当然の義務がごとくさせられます。コロナ感染対策と熱中症対策の両立もままならず、コロナ感染対策と経済振興の両立も難しいところです。今回のコロナ騒動は、すべてが矛盾と欺瞞に満ち溢れた社会の闇が暴かれるきっかけになればと願うばかりです。

 

さて、本日はもう一つの上野の名所「不忍池(しのばずのいけ)」について紹介しようと思います。不忍池は東京都台東区の上野恩賜公園の南端に位置する天然の池です。面積は0.11平方キロメートル、周囲の長さは2キロメートルで、水面の標高は5メートルです。北は上野動物公園西園、東には京成上野駅があり、南と西は不忍通りに接しています。




縄文時代、この辺り一帯は東京湾の入り江であったようで、その後、海岸線の後退とともに取り残されて池になったと考えらえているのが不忍池です。不忍池の場所は、かつて古石神井川が武蔵野台地の東端を割って海沿いの低地へ注いでいた開口部にあたり、川の東の上野台地や反対側の本郷台地より10メートル以上も低い谷合いとなっています。




不忍池の中央に「弁天島(中之島)」があり、そこに建つ石碑によると、上野台地と本郷台地の間の地名が「忍ケ丘(しのぶがおか)」と呼ばれていたことに、その名が由来するとのことです。しかし異説も多く、周囲に笹が多く茂っていたことから「篠輪津(しのわづ)」が転じて不忍となったという説、ここで男女が忍んで逢っていたからという説などがあります。15世紀ころには既に不忍池と呼ばれていたようです。

寛永2年(1625年)に寛永寺が建立されると、開祖の慈眼大師・天海は不忍池を比叡山に対する琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえて弁天島を築かせ、そこに弁天堂を設けました。弁天島は、当初は船で渡る島でしたが、寛文12年(1672年)に弁天島から東に向かって石橋が架けられて徒歩で渡ることができるようになりました。江戸時代まで、忍川が三橋を通り上野広小路を横切るように東に流れ出し、鳥越付近で隅田川に注いでいたことは、以前紹介した通りです。




現在、不忍池は遊歩のための堤で3つの部分に分かれています。蓮で覆われている「蓮池」、ボートを漕いで楽しめる「ボート池」、そしてカワウが繁殖している「鵜の池」です。水深はいずれも8090センチメートル前後です。明治初期までは、池の形も現在とはかなり異なっていたようです。池の北側は今よりも広く藍染川が注ぎ、池の両側には家が建ち並んでいました。不忍池がほぼ現在の形になったのは、明治17年(1884年)に共同競馬会社による競馬場の建設に伴い、埋め立てが行われたことによるものです。




慶応4年(1868年)の戊辰の役では、戦いのあった朝に官軍が放った一発の砲弾が不忍池に落ちて水しぶきを上げたのが戦端だったとの説もあります。

おはようございます。今日は立秋。暦の上では秋ですが、暑さはこれから本番を迎えようとしています。残暑というにはあまりにも長い暑い時期が続くようにも思えます。こうした季節感のズレにも、地球の怒りが感じられます。

 

さて、本日は上野の名所「寛永寺(かんえいじ)」について紹介したいと思います。寛永寺は東京都台東区上野にある天台宗の別格大本山(大本山に準じた待遇を受ける特別な格式を有する寺院)です。寛永2年(1625年)、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門である艮(うしとら)〔北東〕にあたる上野台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。

 

寛永寺の山号は「東叡山(とうえいざん)」で、「東の比叡山」という意味で、比叡山延暦寺を見立てています。寺号の寛永は寛永年間(1624年~1644年)に創建されたことから付けられました。天台宗の宗祖は伝教大師最澄で、本尊の薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)は最澄によって彫られたものと伝えられています。また脇侍(わきじ、きょうじ)の日光菩薩像と月光菩薩像は、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の作と伝えられています。

 

寛永寺を創建した天海大僧正は、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受けました。寛永寺の第三代山主には後水尾天皇の第三皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、以来歴代山主は皇室から迎えられていました。朝廷からは山主に対して「輪王寺宮(りんのうじのみや)」の称号が下賜され、寛永寺のみならず比叡山延暦寺、日光山万願寺(輪王寺)の山主を兼ね、「三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)」と言われ仏教界に君臨していました。

 

寛永寺の境内は、最盛期には現在の上野公園を中心に約305,000坪に及び、その他にも約1万2,000石の寺領を有していました。現在の上野公園の噴水広場にあたる竹の台には間口45メートル、奥行42メートル、高さ32メートルの壮大な根本中堂が建てられ、本寺(東京国立博物館)には小堀遠州による名園が作庭されました。徳川家の菩提寺を兼ねるようになったのは、四代将軍・家綱の霊廟が造営されてからのことです。

幕末の戊辰戦争で伽藍の大部分が焼失し、明治政府によって境内が没収されるなど壊滅的な打撃を受けた寛永寺ですが、明治12年(1879年)に復興が認められ、関東大震災や太平洋戦争を経て、現在に至っています。

おはようございます。東京都がこの夏休みの帰省自粛を要請するとのニュースが流れています。私も高齢の母の様子が気になるので、長野の実家に帰省したいところはやまやまなのですが、今帰ったところで歓迎されるわけでもなく、今夏の帰省は断念せざるを得ない状況です。新型コロナウイルスを理由に、ますます庶民の自由が奪われていきます。何が真実かは知る由もありません。

 

さて、本日は「上野界隈」を紹介しましょう。昔は、上野駅といえば東北、北陸、信越地方への玄関口として多くの人が利用し、私も学生時代はこの上野駅を経由して帰省していました。

 

上野は東京都台東区にある地名で、上野恩賜公園のある上野山が北区方面から伸びる上野台地の先端部分に当たります。もともと外神田の北に続く市街地は「下谷(したや)」と呼ばれ、当初は寛永寺の門前町をはじめとする上野山の下の広い地域を指していましたが、下谷の地名は上野に蚕食されて、現在では上野の一区画を指す町名になっています。

 

上野山は高さ20メートルほどの台地で、それにつながる上野台地は武蔵野台地の分脈の一つです。上野の町は上野山の東と南に開けており、上野台地の西には本郷台地があり、その間には谷田川が流れ不忍池を形成していました。戦国時代、上野山は「忍岡(しのぶおか)」と呼ばれており、人もあまり住んでいない地域でした。

 

慶長8年(1603年)の江戸幕府開府の頃は、忍岡には藤堂高虎の屋敷が置かれていたようです。後に徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開かれます。この地域一帯が「上野」と呼ばれるようになるのはこの頃からで、藤堂家の所領「伊賀国上野」の地形に似ていたためと言われています。歴代将軍の墓が置かれた寛永寺は公儀からも手厚く保護を受け、門前町としての上野も発展していきました。明暦の大火後には、上野には広小路が設けられましたが、その広小路は現在の上野駅付近だったとのことで、現在の広小路は「下谷広小路」と呼ばれていました。

不忍池の東側には盛り場「上野山下(うえのやました)」がありました。山下は浅草の奥山や両国の広小路と並ぶ盛り場で、軽業、辻講釈、人形芝居などの興行や見世物が行われており、いつも多くの人だかりで賑わっていました。また、「けころ」と呼ばれる私娼がいたことでも有名です。

 

上野の地名の由来には諸説あり、先の藤堂家の所領「伊賀国上野」に地形が似ていたという説のほか、小野篁(おののたかむら)が上野国(こうずけのくに)での任を終えて京に帰る途中でこの地に館を建ててしばらく滞在した際に、地元の人が篁を「上野殿」と呼んでいたのが地名になったという説、或いは付近の「下谷」に対して上野と呼ばれるようになったという説などがあります。

おはようございます。事務所移転の関係もあり、瓦版の更新が遅れ恐縮です。新たな事務所への出勤は路線バスを使うことになり、朝は少しゆっくりすることができます。少し歩くことにはなりますが、通勤のストレスは大分軽減されました。コロナ対策として、隣の席との間には透明のアクリル板が設置してあり、異様な光景ではありますが、まあ仕方ないことかと思います。社会通念上、ここまで徹底しなければならないのもおかしな話だとは思いますが、いつになったらまともな判断の下での生活が可能になるのでしょうか。

 

さて、本日は「湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)」について紹介したいと思います。湯島天満宮は東京都文京区湯島にあり、神田界隈からは少し外れてしまいますが、ここで紹介しておきましょう。旧称は「湯島神社」で、通称「湯島天神」として親しまれています。御祭神は「天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)」と「菅原道真公(すがわらみちざねこう)」です。

 

湯島天満宮縁起によると、本神社は雄略天皇2年(458年)1月の勅命により創建、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりとされています。その後、正平10年(1355年)2月、郷民が菅公(菅原道真)の偉徳を慕って文道の大祖として崇めて本社に勧請し奉祀します。文明10年(1478年)10月に太田道灌がこれを再建、天正18年(1590年)に徳川家康が江戸城に入ると、翌天正19年(1591年)1月に豊島郡湯島郷の内御朱印5石を社有として寄進したとのことです。

徳川五代将軍・綱吉は湯島聖堂を昌平坂に移し、この地が久しく文教の中心として湯島天満宮が崇敬されるようになりました。元禄16年(1703年)の火災で湯島天満宮が全焼した際には、翌宝永元年(1704年)に綱吉が金500両を寄進しています。湯島天満宮には僧・堯恵(ぎょうえ)、林道春(はやしどうしゅん)〔林羅山(はやしらざん)〕、松永尺五(まつながせきご)、堀杏庵(ほりきょうあん)、新井白石など学者や文人の参拝が絶えることなく続きました。

 

明治5年(1872年)10月、湯島天満宮は郷社(ごうしゃ)〔神社の社格の一つ〕に列し、明治18年(1885年)8月には府社(ふしゃ)〔神社の社格の一つ〕に昇格しました。明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院(きけんいん)がその職に当たっていたようです。

 

江戸時代の湯島天満宮の縁日は毎月10日と25日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳(でかいちょう)などがあり、江戸町人の憩いの場としても繁盛しました。今日の「宝くじ」に相当するここの「富突(とみつき)」は、谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺〔目黒不動〕とともに「江戸三富」と称されていました。

2021年1月

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