東藝術倶楽部瓦版 20200805:【江戸の町06】学者・文人の参拝が絶えぬ「湯島天満宮」

おはようございます。事務所移転の関係もあり、瓦版の更新が遅れ恐縮です。新たな事務所への出勤は路線バスを使うことになり、朝は少しゆっくりすることができます。少し歩くことにはなりますが、通勤のストレスは大分軽減されました。コロナ対策として、隣の席との間には透明のアクリル板が設置してあり、異様な光景ではありますが、まあ仕方ないことかと思います。社会通念上、ここまで徹底しなければならないのもおかしな話だとは思いますが、いつになったらまともな判断の下での生活が可能になるのでしょうか。

 

さて、本日は「湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)」について紹介したいと思います。湯島天満宮は東京都文京区湯島にあり、神田界隈からは少し外れてしまいますが、ここで紹介しておきましょう。旧称は「湯島神社」で、通称「湯島天神」として親しまれています。御祭神は「天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)」と「菅原道真公(すがわらみちざねこう)」です。

 

湯島天満宮縁起によると、本神社は雄略天皇2年(458年)1月の勅命により創建、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりとされています。その後、正平10年(1355年)2月、郷民が菅公(菅原道真)の偉徳を慕って文道の大祖として崇めて本社に勧請し奉祀します。文明10年(1478年)10月に太田道灌がこれを再建、天正18年(1590年)に徳川家康が江戸城に入ると、翌天正19年(1591年)1月に豊島郡湯島郷の内御朱印5石を社有として寄進したとのことです。

徳川五代将軍・綱吉は湯島聖堂を昌平坂に移し、この地が久しく文教の中心として湯島天満宮が崇敬されるようになりました。元禄16年(1703年)の火災で湯島天満宮が全焼した際には、翌宝永元年(1704年)に綱吉が金500両を寄進しています。湯島天満宮には僧・堯恵(ぎょうえ)、林道春(はやしどうしゅん)〔林羅山(はやしらざん)〕、松永尺五(まつながせきご)、堀杏庵(ほりきょうあん)、新井白石など学者や文人の参拝が絶えることなく続きました。

 

明治5年(1872年)10月、湯島天満宮は郷社(ごうしゃ)〔神社の社格の一つ〕に列し、明治18年(1885年)8月には府社(ふしゃ)〔神社の社格の一つ〕に昇格しました。明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院(きけんいん)がその職に当たっていたようです。

 

江戸時代の湯島天満宮の縁日は毎月10日と25日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳(でかいちょう)などがあり、江戸町人の憩いの場としても繁盛しました。今日の「宝くじ」に相当するここの「富突(とみつき)」は、谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺〔目黒不動〕とともに「江戸三富」と称されていました。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年8月 5日 08:04に書いたブログ記事です。

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