東藝術倶楽部瓦版 20200806:【江戸の町その07】寛永寺の門前町として開かれた「上野界隈」

おはようございます。東京都がこの夏休みの帰省自粛を要請するとのニュースが流れています。私も高齢の母の様子が気になるので、長野の実家に帰省したいところはやまやまなのですが、今帰ったところで歓迎されるわけでもなく、今夏の帰省は断念せざるを得ない状況です。新型コロナウイルスを理由に、ますます庶民の自由が奪われていきます。何が真実かは知る由もありません。

 

さて、本日は「上野界隈」を紹介しましょう。昔は、上野駅といえば東北、北陸、信越地方への玄関口として多くの人が利用し、私も学生時代はこの上野駅を経由して帰省していました。

 

上野は東京都台東区にある地名で、上野恩賜公園のある上野山が北区方面から伸びる上野台地の先端部分に当たります。もともと外神田の北に続く市街地は「下谷(したや)」と呼ばれ、当初は寛永寺の門前町をはじめとする上野山の下の広い地域を指していましたが、下谷の地名は上野に蚕食されて、現在では上野の一区画を指す町名になっています。

 

上野山は高さ20メートルほどの台地で、それにつながる上野台地は武蔵野台地の分脈の一つです。上野の町は上野山の東と南に開けており、上野台地の西には本郷台地があり、その間には谷田川が流れ不忍池を形成していました。戦国時代、上野山は「忍岡(しのぶおか)」と呼ばれており、人もあまり住んでいない地域でした。

 

慶長8年(1603年)の江戸幕府開府の頃は、忍岡には藤堂高虎の屋敷が置かれていたようです。後に徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開かれます。この地域一帯が「上野」と呼ばれるようになるのはこの頃からで、藤堂家の所領「伊賀国上野」の地形に似ていたためと言われています。歴代将軍の墓が置かれた寛永寺は公儀からも手厚く保護を受け、門前町としての上野も発展していきました。明暦の大火後には、上野には広小路が設けられましたが、その広小路は現在の上野駅付近だったとのことで、現在の広小路は「下谷広小路」と呼ばれていました。

不忍池の東側には盛り場「上野山下(うえのやました)」がありました。山下は浅草の奥山や両国の広小路と並ぶ盛り場で、軽業、辻講釈、人形芝居などの興行や見世物が行われており、いつも多くの人だかりで賑わっていました。また、「けころ」と呼ばれる私娼がいたことでも有名です。

 

上野の地名の由来には諸説あり、先の藤堂家の所領「伊賀国上野」に地形が似ていたという説のほか、小野篁(おののたかむら)が上野国(こうずけのくに)での任を終えて京に帰る途中でこの地に館を建ててしばらく滞在した際に、地元の人が篁を「上野殿」と呼んでいたのが地名になったという説、或いは付近の「下谷」に対して上野と呼ばれるようになったという説などがあります。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年8月 6日 07:37に書いたブログ記事です。

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