東藝術倶楽部瓦版 20200807:【江戸の町その08】江戸の鬼門を護る「寛永寺」

おはようございます。今日は立秋。暦の上では秋ですが、暑さはこれから本番を迎えようとしています。残暑というにはあまりにも長い暑い時期が続くようにも思えます。こうした季節感のズレにも、地球の怒りが感じられます。

 

さて、本日は上野の名所「寛永寺(かんえいじ)」について紹介したいと思います。寛永寺は東京都台東区上野にある天台宗の別格大本山(大本山に準じた待遇を受ける特別な格式を有する寺院)です。寛永2年(1625年)、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門である艮(うしとら)〔北東〕にあたる上野台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。

 

寛永寺の山号は「東叡山(とうえいざん)」で、「東の比叡山」という意味で、比叡山延暦寺を見立てています。寺号の寛永は寛永年間(1624年~1644年)に創建されたことから付けられました。天台宗の宗祖は伝教大師最澄で、本尊の薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)は最澄によって彫られたものと伝えられています。また脇侍(わきじ、きょうじ)の日光菩薩像と月光菩薩像は、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の作と伝えられています。

 

寛永寺を創建した天海大僧正は、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受けました。寛永寺の第三代山主には後水尾天皇の第三皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、以来歴代山主は皇室から迎えられていました。朝廷からは山主に対して「輪王寺宮(りんのうじのみや)」の称号が下賜され、寛永寺のみならず比叡山延暦寺、日光山万願寺(輪王寺)の山主を兼ね、「三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)」と言われ仏教界に君臨していました。

 

寛永寺の境内は、最盛期には現在の上野公園を中心に約305,000坪に及び、その他にも約1万2,000石の寺領を有していました。現在の上野公園の噴水広場にあたる竹の台には間口45メートル、奥行42メートル、高さ32メートルの壮大な根本中堂が建てられ、本寺(東京国立博物館)には小堀遠州による名園が作庭されました。徳川家の菩提寺を兼ねるようになったのは、四代将軍・家綱の霊廟が造営されてからのことです。

幕末の戊辰戦争で伽藍の大部分が焼失し、明治政府によって境内が没収されるなど壊滅的な打撃を受けた寛永寺ですが、明治12年(1879年)に復興が認められ、関東大震災や太平洋戦争を経て、現在に至っています。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年8月 7日 08:23に書いたブログ記事です。

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