東藝術倶楽部瓦版 20200813:【江戸の町その09】戊辰の役の戦端となった?-「不忍池」

おはようございます。今朝の空の雲をみると秋が近づいているような気もするのですが、今はまさに夏本番という暑さです。コロナ対策でマスクも外すわけにもいかず、建物の出入にはアルコール消毒は当然の義務がごとくさせられます。コロナ感染対策と熱中症対策の両立もままならず、コロナ感染対策と経済振興の両立も難しいところです。今回のコロナ騒動は、すべてが矛盾と欺瞞に満ち溢れた社会の闇が暴かれるきっかけになればと願うばかりです。

 

さて、本日はもう一つの上野の名所「不忍池(しのばずのいけ)」について紹介しようと思います。不忍池は東京都台東区の上野恩賜公園の南端に位置する天然の池です。面積は0.11平方キロメートル、周囲の長さは2キロメートルで、水面の標高は5メートルです。北は上野動物公園西園、東には京成上野駅があり、南と西は不忍通りに接しています。




縄文時代、この辺り一帯は東京湾の入り江であったようで、その後、海岸線の後退とともに取り残されて池になったと考えらえているのが不忍池です。不忍池の場所は、かつて古石神井川が武蔵野台地の東端を割って海沿いの低地へ注いでいた開口部にあたり、川の東の上野台地や反対側の本郷台地より10メートル以上も低い谷合いとなっています。




不忍池の中央に「弁天島(中之島)」があり、そこに建つ石碑によると、上野台地と本郷台地の間の地名が「忍ケ丘(しのぶがおか)」と呼ばれていたことに、その名が由来するとのことです。しかし異説も多く、周囲に笹が多く茂っていたことから「篠輪津(しのわづ)」が転じて不忍となったという説、ここで男女が忍んで逢っていたからという説などがあります。15世紀ころには既に不忍池と呼ばれていたようです。

寛永2年(1625年)に寛永寺が建立されると、開祖の慈眼大師・天海は不忍池を比叡山に対する琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえて弁天島を築かせ、そこに弁天堂を設けました。弁天島は、当初は船で渡る島でしたが、寛文12年(1672年)に弁天島から東に向かって石橋が架けられて徒歩で渡ることができるようになりました。江戸時代まで、忍川が三橋を通り上野広小路を横切るように東に流れ出し、鳥越付近で隅田川に注いでいたことは、以前紹介した通りです。




現在、不忍池は遊歩のための堤で3つの部分に分かれています。蓮で覆われている「蓮池」、ボートを漕いで楽しめる「ボート池」、そしてカワウが繁殖している「鵜の池」です。水深はいずれも8090センチメートル前後です。明治初期までは、池の形も現在とはかなり異なっていたようです。池の北側は今よりも広く藍染川が注ぎ、池の両側には家が建ち並んでいました。不忍池がほぼ現在の形になったのは、明治17年(1884年)に共同競馬会社による競馬場の建設に伴い、埋め立てが行われたことによるものです。




慶応4年(1868年)の戊辰の役では、戦いのあった朝に官軍が放った一発の砲弾が不忍池に落ちて水しぶきを上げたのが戦端だったとの説もあります。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年8月13日 09:10に書いたブログ記事です。

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