おはようございます。コロナ禍と言われる中、オンラインでの面談や会議が多くなっています。特に日本にいる外国人との面談はいずれもオンラインで、昨日は中国大使館の経済参事官との意見交換、先週は米国大使館の経済書記官との意見交換をしました。事務所が移転して、中国大使館も米国大使館も歩いて行ける距離にあるのに、何となく違和感を覚えるのは私だけでしょうか。
さて、本日は「浅草界隈」について紹介していきたいと思います。浅草は上野と同じように、現在の東京都台東区にある地域です。台東区の東半分を占め、江戸・東京を代表する下町となっています。
浅草が浅草寺の門前町として昔から栄えていたことは周知のことですが、その歴史は思っている以上に古く、推古天皇36年(628年)に宮戸川(みやとがわ)〔隅田川〕で檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が漁をしていたところ、仏像が網にかかり、これを本尊の「聖観音(しょうかんのん)像」として祀ったのが浅草寺の始まりとされています。浅草寺については、別途詳細に紹介しようと思います。
この浅草一帯は、太古の時代は浅草台地という小高い丘で、現在の待乳山(まつちやま)、弁天山、蔵前、鳥越神社付近から陸地が進んだものとみられています。隅田川の河口近くで海産物にも恵まれる一方、やや高台であることから官道が通り災害からも避難しやすい土地であったために、町としての発展も早くから進みました。
鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』には、養和元年(1181年)の条に、鶴岡八幡宮造営のために武蔵国浅草の宮大工を招いたと記されているのが、浅草の地名が史料に初見されるもので、地名の由来には諸説あります。草深い武蔵野で「草が浅く茂っていた」という地形描写説、「海を越す」という意味のアイヌ語「アツアクサ」からきたという説、「聖者のいる場所」を意味する「アーシャ・クシャ」というチベット語説などです。
浅草は門前町であると同時に、隅田川の河口であることから江戸湊や品川湊と並んで武蔵国の代表的な港でもあったと考えられています。港の場所は現在の台東区橋場の「石浜」、今戸町の「今津」です。江戸時代以前には隅田川が武蔵国と下総国との境目であり、この地域に石浜城が築かれていたとも言われています。
江戸時代に入り、浅草御蔵(蔵前)に米蔵が設置されると、米を現金に替えてくれる「札差(株仲間)」という商人が登場するとともに、米蔵を警備する下級役人が配置され、賑わいをみせることになります。両国を中心に蔵前商人が店を構え、浅草には人、物、金が集まってきました。明暦3年(1657年)の明暦の大火後には日本橋芳町(人形町)から吉原遊郭が移転し新吉原遊郭が築かれ、天保12年(1841年)の人形町の火事の後には江戸市中の芝居小屋が浅草に集められ、芝居町として猿若町が形成されました。
当時、武士とともに芝居小屋や吉原へ出入して豪遊することは「粋(いき)」を争う江戸町人の憧れでもあり、こうした町人は「通人(つうじん)」と言われ、中でも「十八大通」と呼ばれた人たちがいて、その多くは札差連中だったとのことです。明治以降、新たな演芸場や劇場が建てられ、東京の文化の発信地としてさらに発展していきました。
浅草の名物として「浅草海苔」が知られるところですが、江戸時代にはすでに他所で製品化したものを浅草海苔としてブランド化して売られていたようです。浅草で実際に海苔が採れていたのは室町時代末期までで、時代が下がるにつれて下流に移り、江戸時代中期には大森辺りが海苔の産地だったようです。
コメントする