東藝術倶楽部瓦版 20200824:【江戸の町その11】宮戸川、網にかかりし観音像-「浅草寺」(上)

おはようございます。先週は業務が立て込み、瓦版の更新が思うようにできませんでした。コロナ禍においても仕事があるのは嬉しいのですが、いくら細々と稼いでもそれ以上のカネが出ていきます。このような苦労をしない限り、その実感はいつまでたっても味わえません。下々の心知らずば、上に立つことはできません。今の日本の体たらくは、上に立つ資格のない者が上にたっているからです。

 

さて、本日は浅草の名所「浅草寺(せんそうじ)」について紹介してみましょう。浅草が門前町として栄える起源となった浅草寺は、東京都台東区浅草にある東京都最古の寺だと言われています。山号は「金龍山(きんりゅうざん)」、本尊は「聖観世音菩薩(しょうかんのんぼさつ)」です。聖観音は「六観音」の一尊であり、天台宗と真言宗で属する観音が異なりますが、これについてはまた改めて説明したいと思います。

 

浅草寺は、もともとは天台宗に属していましたが、昭和25年(1950年)に独立して「聖観音宗」の総本山となりました。聖観音菩薩像を本尊とすることから、一般には「浅草観音」或いは「浅草の観音様」などと呼ばれ、地元の人たちに親しまれているばかりでなく、多くの内外からの観光客で賑わっています。江戸三十三箇所観音霊場の最初の札所であり、都内で唯一の坂東三十三箇所観音霊場の13番目の札所にもなっています。

 

「浅草寺縁起」によると、推古天皇36年(628年)、宮戸川(隅田川)で檜前浜成(ひのくまのはまなり)と竹成(たけなり)兄弟が漁をしていた際に仏像が網にかかり、これが浅草寺の本尊となる聖観音菩薩像でした。この兄弟の主人であった土師中知(はじのなかとも)〔土師真中知(はじのまなかち)〕はこの観音像を拝し、出家して自宅を寺として供養します。これが浅草寺の始まりだとされています。

大化元年(645年)、勝海上人(しょうかいしょうにん)が夢告に従い本尊を秘仏と定め、その後、天安元年(857年)〔天長5年(828年)との説もあり〕に延暦寺の僧・円仁(えんにん)〔慈覚大師(じかくだいし)〕が来寺して秘仏の代わりに拝むための「お前立ち(おまえだち)」の観音像を造ったとされています。このため、浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称しています。天慶5年(942年)、安房守・平公雅(たいらのきみまさ)が武蔵守に任じられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(宝蔵門)などはこの時に創建されたと言われています。

 

本尊の聖観音菩薩像については、秘仏であるがためにその実体は明らかではないのですが、高さ1寸8分(約5.5センチメートル)の金色の像と伝えられています。一説に、浅草寺創建の100年ほど前に、現在の埼玉県飯能市岩淵にある成木川沿いにあった岩井堂に安置されていた観音像が大水でお堂ごと成木川に流され行方不明となり、これが檜前兄弟に拾われた聖観音像だとの話があります。成木川は入間川、荒川を経て隅田川につながっており、後に仏像発見の話を聞いた上流の人々が返還を求めたが、叶わなかったとのことです。

 

歴史の文献上での浅草寺の初見は鎌倉時代の『吾妻鏡』です。承久5年(1181年)の鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し浅草から宮大工を呼び寄せ、建久3年(1192年)には鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日の法要が営まれた際に、浅草寺の僧が参加したとの記述があります。また、後深草院が正応3年(1290年)に浅草寺を参詣した時の様子も描かれています。

 

江戸時代以降の浅草寺の紹介は、次回に続きます。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年8月24日 08:06に書いたブログ記事です。

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