東藝術倶楽部瓦版 20200831:【江戸の町その14】江戸時代に造成された夢の島-「深川界隈」

おはようございます。8月も今日で終わり、明日から9月です。先週末に安倍首相の辞任の発表があり、政府内も大騒ぎの中、次の総裁選びに火花が散り始めています。いろいろな人や派閥の思惑、利害関係が絡み合い、どのような体制になるのかは分かりません。コロナ騒ぎも収束が見通せず、経済がボロボロのまま、戦後最長の長期政権となった安倍首相の急な退任というのはどうかとも思いますが、病気が原因というのであれば仕方ありません。ただ前例が前例なので、どうも疑問が残るところです。

 

さて、本日は「深川界隈(ふかがわかいわい)」について紹介しようと思います。深川は、現在の行政区分でいえば東京都江東区の西側に位置する隅田川左岸の低湿地一帯を指します。今でも深川一丁目及び深川二丁目とこの地名は残っていますが、一般に深川はもう少し広い地域を指しています。

 

河川が縦横に走る深川は江戸時代に造成された「夢の島」で、もともとは遠浅の海浜に小島が点在する地域でした。慶長年間(1596年~1615年)、江戸がまだ町造りを始めたばかりの頃、摂津国(大阪府)から深川八郎右衛門(ふかがわはちろうえもん)ら6名がここに移住し、小名木川北岸一帯を開拓します。八郎右衛門の名字を村名としたのが、この地域を深川と呼ぶようになった由来です。

 

江戸初期には、深川は漁師町でしたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火以降に本格的な開発が始まり、万治2年(1659年)に両国橋が架けられたことで急速に都市化が進みました。火災の焼土や市中のゴミが造成の埋め立てに使われたようです。富岡にある永代寺の門前には料理屋や屋台が並ぶ繁華街となり、岡場所などもできて、信仰と行楽の場所として賑わうようになりました。特にこの地が一躍繁華街に変わるきっかけとなったのが「深川芸者」の存在で、江戸の辰巳(たつみ)の方角(東南部)に位置していたころから、俗に「辰巳芸者」と呼ばれていました。

 

深川は水運が便利であったことから、幕府の指示で貯木場である「木場」が移転してきます。材木商として財を成した紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)や奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)も一時居を構えるなど材木業が集中し、深川木場としも繁栄していきました。

深川の名物といえば、アサリなどの貝類とネギなどの野菜を煮込んだ汁をご飯にかけたり、炊き込んだりした料理の「深川めし」が有名です。古くは深川の漁師が仕事の合間に食べるぶっかけ飯がそのルーツだともいわれています。江戸時代は主にバカガイが使われて、アサリを使うようになったのは明治時代になってからだそうです。

 

明治11年(1878年)、「郡区町村編制法」に基づき東京府15区制が発足し、深川一帯は「深川区」となりました。深川一帯が江東区となるのは、戦後になってからです。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年8月31日 18:42に書いたブログ記事です。

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