2020年9月アーカイブ

おはようございます。最近、芸能人の訃報が続いています。自ら命を絶つ人も少なくないようで、今回亡くなられた竹内結子さんも自殺とみられています。私としては、NHK大河ドラマの「真田丸」で淀殿を演じていた印象が強く残っています。真相はよく分かりませんが、華やかに見える芸能界は、衆目を集めるだけにそのストレスは尋常ではなく、そこに家庭問題など私的な事情が加わると、相当気をしっかりと持たないと心が折れてしまうのかもしれません。世に名前が出るということは、それだけの重圧がのしかかることも覚悟すべきなのでしょうか。

 

さて、本日は「回向院(えこういん)」について紹介しましょう。回向院は東京都墨田区両国にある寺院です。宗派は浄土宗に属し、山号は諸宗山(しょしゅうざん)、正式名称は「諸宗山無縁寺回向院(しょしゅうざんむえんじえこういん)」です。一時期、「国豊山(こくぶざん)無縁寺回向院」とも称されたこともあります。

 

過去、現在の荒川区南千住に別院があり、そこと区別するためでしょうか、「本所回向院」とも呼ばれていました。本尊は言わずもがな、浄土宗ですから阿弥陀如来となります。ちなみに、南千住の別院であった回向院は、現在は独立して「豊国山(ほうこくさん)回向院」、或いは「小塚原(こづかはら、こずかっぱら)回向院」と呼ばれています。

 

回向院が開かれたのは明暦3年(1657年)です。この年、江戸では「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があったことは、これまで何回も紹介してきたところです。江戸市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の人が亡くなりました。亡くなった人の多くは身元が分からず、身寄りのない人だったと言われています。

 

時の将軍徳川家綱は、こうした無縁の人々の亡骸を手厚く葬るために、隅田川東岸の本所牛島新田に50間四方の土地を与えて「万人塚」を設け、増上寺第23代遵誉上人(じゅんよじょうにん)を導師として亡くなった人々の冥福を祈る大法要が執り行われました。この時に念仏を行じるお堂が建てられますが、これが回向院の始まりとされています。

この起こりが、これまで回向院で今でも守られている「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるものすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」という理念とのことです。安政2年(1855年)の安政の大地震をはじめ、水死者、焼死者、刑死者などの無縁仏のほか、軍用犬・軍馬慰霊碑、猫塚、犬猫供養塔、小鳥供養塔など様々な慰霊碑や供養塔、ペットの墓などがあります。著名人としては山東京伝、竹本義太夫、鳥居清長、鼠小僧次郎吉などの墓もあります。

 

このような理念に基づき、阿弥陀如来を本尊とする一方で、境内堂宇には観世音菩薩や弁財天などが安置され、江戸庶民にとっては様々な巡拝の札所ともなっていました。今でも江戸三十三箇所観音参りの第4番札所となっており、ここの馬頭観音は家綱の愛馬を供養したことに由来しているとか。また、寛政8年(1793年)、老中・松平定信の命によって立てられた「水子塚」は水子供養の発祥とされており、毎年2月の第一土曜日に水子総供養、その他隔月ごとに水子供養が行われています。

 

回向院は、境内で勧進相撲が行われていたことでも知られています。明和5年(1768年)に勧進相撲が行われて以来、明治末期まで続きました。これを「回向院相撲」と呼ぶこともあります。このことが起源となり、明治42年(1909年)に旧両国国技館が建てられることになります。昭和11年(1936年)には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立しています。

おはようございます。台風12号が日本列島の東の海上を北上し、関東から東北にかけて大雨や強風の被害の恐れがあるとのことですが、今のところ東京は弱い雨が降っているところで、これから台風が近づくに従って雨風が強くなるのかもしれません。本日、我が調査部は、自己判断もありますが、私以外は在宅勤務となっています。自宅が近いこともあり、また電話番も必要なので出勤してはいますが、今日の業務は在宅でも十分対応できるものです。そこが部署を預かる責任者としての辛いところかもしれません。

 

さて、本日は「両国(りょうごく)」について紹介していきたいと思います。両国は、現在の東京都中央区と墨田区に跨る両国橋周辺一帯を指していますが、一方で墨田区の町名の一つにもなっており、そこは旧本所区にあたる本所地域内に属しています。

 

明暦の大火をきっかけとして万治2年(1659年)〔寛文元年(1661年)との説もあり〕に、隅田川(大川)に「大橋」が架けられます。貞享3年(1686年)〔寛永年間(1622年~1643年)との説もあり〕に南葛飾郡が武蔵国に編入されるまでは、隅田川が武蔵国と下総国との境界になっていたことから、大橋は俗に「両国橋(りょうごくばし)」と呼ばれていました。この両国橋の架橋により、隅田川の西岸の神田や日本橋地域と東岸の本所・深川地域が直接結ばれることになりました。東岸については、現在の両国を含む北側が本所、両国よりも南側が深川です。

 

もともと、両国という地名は両国橋の西岸一帯を指し、東岸一帯は「向両国(むこうりょうごく)」と呼ばれていました。西岸の両国は、その後「日本橋両国」、そして現在は「東日本橋」と地名が変遷していきます。一方、東岸は向両国から「本所東両国」、そして両国へと地名が変わりました。本所、深川の本格的な開発が始まるのは元禄年間(1688年~1704年)以降のことです。向両国と呼ばれるようになるのもその頃です。当時の西岸にあった両国は、現在の東日本橋に加え、近隣の日本橋馬喰町や日本橋横山町、日本橋久松町なども含めた広い地域を指していたようです。

江戸時代、この東西の両国界隈に設けられた広小路には、髪結床や水茶屋などの床見世のほかに、棒手振り、屋台などの露天商が立ち並んでいました。もともと広小路は日除け地であるため、常設の店舗の設置は禁じられており、仮設営業のみが許されていました。軽業や手品、浄瑠璃、講談などの見世物小屋もあって多くの人々で賑わいをみせていました。

 

明治11年(1878年)、東京市15区の設置により両国橋の西側が日本橋両国、東側が本所東両国と言われるようになります。その後の両国駅の開業や両国国技館の開館などによって、両国という地名は本所東両国を指すようになり、現在に至っています。

おはようございます。最近は瓦版の更新が不定期になってしまい恐縮です。中国との往来が絶えて久しくなっていますが、業務はそれなりに忙しく、往来再開に向けた準備を進めつつ、現在抱えている業務を往来がないなりに進めていかなければなりません。明日からは4連休の方も多いと思いますが、私は相変わらずの生活になりそうです。菅内閣が発足しましたが、仕事も生活も大した変化なく、時が過ぎていきそうです。

 

さて、本日は「本所界隈」を紹介しようと思います。本所は東京都墨田区にある町名で、一般に墨田区のおおよそ南側半分を範囲とし、江戸の下町を構成する地域の一つとして発展してきています。下谷、浅草、深川などとともに、江戸の低地に位置し、下町の外郭を成しています。

 

本所一帯は、江戸時代に深川と並んで拡大する大江戸の新興地域として開発が進みました。江戸初期には寂れた農村地帯で、本所村、中之郷村などと呼ばれていましたが、急速に市街地として開発されるのは、明暦3年(1657年)の明暦の大火の後です。万治2年(1659年)〔寛文元年(1661年)という説もあり〕に両国橋が架けられ、万治3年(1660年)には本所築地奉行が設置されます。竪川、横川、十間川、南割下水などの堀が作られ、低地を埋め立てて宅地が造成されました。明暦の大火後の江戸府内の都市計画により、府内から押し出された町民のほかに、大火で焼け出された武家屋敷なども本所に移転しました。赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良義央の屋敷もこの本所にありました。

 

本所一帯が名実ともに江戸市中に加えられたのは享保4年(1719年)のことです。大部分は武家地や寺社地で、武家地といっても小禄の旗本や御家人が多く、町人は川沿いの一部の地域に居住していました。両国橋の東側には回向院、本所の東に広がる田畑の一角には亀戸天神や梅屋敷、龍眼寺、柳島妙見などの名所があり、訪ねる人も少なくなかったようです。

明治以降は次第に工業地帯として発展しますが、大正12年(1923年)の関東大震災や昭和20年(1945年)の東京大空襲では甚大な被害を受けます。21世紀に入り、本所一帯は錦糸町・亀戸副都心の再開発が行われ、本所北端部の押上には東京スカイツリーが建設されるなど、観光名所としても賑わいをみせています。

 

本所という言葉は、もともとは古代末期から中世に至る荘園領主の呼称として使われてきました。これが本所の地名の語源となっているようですが、詳細については分かりません。江戸時代には、本所総鎮守にあたる牛嶋神社の御旅所として賑わいをみせていたようです。現在でも牛嶋神社の門前町としての役割を担っています。

おはようございます。この週末、東銀座にある歌舞伎座で、久しぶりに家族で歌舞伎を楽しんできました。一席空きのソーシャルディスタンスで、桟敷席は使われず、公演も実演と映像を組みあせた演出となっており、コロナ対策に十分配慮しているとの感じを受けました。人数制限があり、一部ごとのチケット売りで幕間はなく、値段は普段よりは割高ですが、映像では舞台裏の様子や回り舞台の仕組みなどの説明があり、非常に興味深く中身の濃い内容となっていました。演目は「鷺娘」で、坂東玉三郎の舞がとても美しかったです。玉三郎による口上の後、玉三郎自らが舞台裏や回り舞台の説明を映像での実演を行うなど、役者も歌舞伎座も努力してコロナ禍を乗り越え、如何に観客に楽しんでもらうかとい努力のあとがよくみえました。政権争いで世界に醜態をさらしつつある日本ですが、下々の間では感動する取り組みが行われています。改めて日本文化、江戸文化の素晴らしさを肌で感じる体験でした。

 

さて、 本日は「洲崎弁天(すさきべんてん)」について紹介しようと思います。洲崎弁天は以前は「洲崎弁天社」、現在では「洲崎神社(すさきじんじゃ)」と呼ばれ、東京都江東区木場に位置しています。創建は元禄3年(1700年)で、徳川五代将軍・綱吉の生母である桂昌院が崇拝していた江戸城中紅葉山の弁財天(弘法大師作と伝えられている)を、護持院(護国寺)隆光の進言により、この地に遷座したのが始まりとされています。創建には、深川海面築地普請奉行の深津八郎右衛門があたったとされています。以来、徳川家代々の守護神とされてきました。

 

御祭神は、広島の厳島神社の御分霊祭神である「市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)」です。市杵島比賣命は「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」の一柱で、神仏習合における本地垂迹では七福神の弁財天に比定されています。

 

そもそも「洲崎(すさき)」という場所は、元禄年間(1688年~1704年)に埋め立てられた土地で、古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれた海を望む景勝地だったようで、現在は江東区東陽町一丁目にあたります。江戸時代初期は、江戸城への運搬船を通すために小名木川などの河川を水路として整備し、その河口付近の湿地帯をならしました。この水路に畦を配して養魚場などにも利用されていたようです。

 

寛政3年9月(179110月)に洲崎一帯を台風による高潮が襲い、多数の死者が出る大惨事が起きます。以降、幕府は洲崎一帯に家屋の建築を禁止しますが、養殖業は盛んに行われ、潮干狩りの名所として発展していきました。

明治に入り、洲崎弁天の東側の広大な湿地が整備されます。そこに洲崎弁天町が設置され、根津遊郭が移転してきました。大正時代末期には、吉原の「北国(ほっこく)」に対する「辰巳(たつみ)」と異名をとるほどの大歓楽街として賑わいをみせていました。

おはようございます。コロナ禍の中、インターネットによる電子商取引(EC)などデジタル経済の重要性が高まってきています。目に見えないバーチャル空間での取引ですから、実際に何が行われいるのかが分からないままに物事が進む恐ろしさがあります。今回、ドコモ口座で1,000万円ほどの不正引き出しによる被害が確認されていますが、新たな技術が生まれるたびにセキュリティについての対策が必要となります。人間性の向上なくして技術だけが発展する世界に付きまとう弊害です。

 

さて、本日は「木場(きば)」について紹介したいと思います。木場は、東京都江東区にあり、現在は木場一丁目から六丁目がその町名となっています。深川地域に属しており、北は仙台堀川で深川、平野と接し、東は東陽、南は汐浜運河で塩浜と、更に西は平久川で冬木、富岡、牡丹、古石場と接しています。

 

木場とは、貯木場(木置場)や木材の切り出し場のことで、これに由来する地名は日本各地にあります。木材の運搬が便利なように、海や川沿いに面しています。深川の木場もこれに由来する地名です。原木はそのまま置いておくと、乾燥によるひび割れや虫食いが生じます。そのため水につけた状態での保存が基本です。木材の保存には海水と淡水が混じった「汽水」の状態が適しているとのことです。木置場では、「筏師(いかだし)〔川並(かわなみ)〕」と呼ばれる職人が活躍していました。

 

天正18年(1590年)に徳川家康が江戸入府と同時に江戸城修築と江戸の都市開発が始まります。その際、大量の木材需要が生まれるわけですが、そのため木材の流通に携わる商人が江戸に集まり、木材の売買が行われました。江戸の初期の木置場は神田、道三堀など日比谷入江にありましたが、入江の埋め立てが進むと、木置場も三十間堀、茅場町辺りに移ります。

 

寛永18年(1641年)に京橋から出火した江戸の大火で江戸市中に点在していた木置場が大きな被害を受けます。この時の火事の延焼の原因が点在する木材商の「高積み」が原因とされ、木材商は深川漁師町の入り江である永代島(元木場)に集められました。この場所は隅田川東岸で大火の影響を受けにくく、江戸市中から比較的離れていることから、火事の際にも木材への延焼を防ぐことができました。

 

更に明暦3年(1657年)の明暦の大火を契機に開かれた水路による水運を活かし、元禄16年(1703年)に「木場深川町」が誕生しました。江戸幕府が元木場の干拓事業を行うためにその地を召し上げてしまったために、当時造形されたばかりの「築地町」が代替地として選ばれたのが深川木場町となり、現在の木場に繋がっています。

安政2年(1855年)の大地震では、本所・深川も甚大な被害を受けました。震災後の復興には町民が助け合い、中でも地元への社会奉仕「施行」として材木商仲間が多額の寄付を行ったそうです。木場の木置場は昭和50年(1975年)頃までは利用されていたましたが、東京湾の埋め立てが進み、新木場へと更に移転し、現在に至っています。新木場へと移転した材木関連企業の跡地は、現在は木場公園となっています。

おはようございます。おはようございます。台風9号に続き、台風10号が九州地方全域と中国地方の一部を暴風域に巻き込みながら北上を続けています。今のところ河川の氾濫に関する情報は出ていませんが、今後の被害状況はもうしばらくしてみないと何とも言えません。過去の教訓をもとに各地で避難が早めに行われていたこともあり、従来よりは人的被害が少ないのではないかと思います。過去から何を学ぶのか、とても大事なことです。

 

さて、本日は深川界隈のもう一つの名所「深川不動尊(ふかがわふどうそん)」について紹介しようと思います。深川不動尊は「深川不動堂(ふかがわふどうどう)」とも呼ばれ、これらはいずれも通称で、正式名称は「成田山東京別院深川不動堂(なりたさんとうきょうべついんふかがわふどうどう)」です。名称からも分かるように、千葉県成田市にある大本山「成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)」の東京別院として建てられたものです。

 

ですから、深川不動尊の山号は成田山、宗派は真言宗智山派、本尊は不動明王と、いずれも成田山新勝寺と同じです。新勝寺の本尊である不動明王の霊像は、嵯峨天皇の勅願により弘法大師(空海)が一刀三礼(一彫りごとに三度礼拝する)敬刻開眼したものとされ、その分身が深川不動尊の本尊となっています。

 

深川不動尊は先に紹介した富岡八幡宮と同じ江東区富岡にあります。成田山新勝寺の創建は天慶3年(940年)と平安時代に遡りますが、庶民信仰の対象として高い人気を得るようになったのは江戸時代中期以降です。江戸時代の初めに、歌舞伎役者の市川團十郎がしたご利益を得たことをきっかけに「成田不動尊利生記」などの芝居を行ったことから、江戸っ子の間で新勝寺の不動尊を拝観したいとの機運が高まります。これを受けて、元禄16年(1703年)に第1回の成田不動の「出開帳(でかいちょう)〔秘仏特別公開〕)」が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれました。これが深川不動尊の始まりとされています。

その後、江戸における成田不動の出開帳は安政3年(1856年)までに12回行われましたが、そのうち1回を除きこの深川永代寺が会場となりました。明治維新後、永代寺は神仏分離令によって廃寺となり、境内は深川公園となります。しかし不動尊信仰は止むことなく、明治11年(1878年)に、現在の場所に成田不動の分霊を祭り、深川不動尊として存続することになりました。明治14年(1881年)に建てられた本堂は関東大震災や東京大空襲で二度に渡り焼失しましたが、本尊は幸いにも焼失を免れています。

 

ちなみに、成田不動の江戸での出開帳が行われるようになったきっかけとして、一説に5代将軍・綱吉の生母・桂昌院が成田不動尊を篤く信仰しており、護国寺の高僧・隆光を動かして出開帳を実現させたとも言われています。実際に元禄16年の最初の出開帳には桂昌院も参拝しています。

おはようございます。突然の安倍総理の辞任の発表に揺れ、次の総理、総裁選びに火花が散る自民党内の駆け引きですが、それぞれの派閥の思惑が見え隠れしています。こういう人たちが日本の舵取りをしているのかと思うと不安に駆られるのは、私だけでしょうか。

 

さて、本日は深川の名所の一つ「富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)」について紹介しようと思います。富岡八幡宮は東京都江東区富岡にある八幡神社で、この地域が深川地域に属していることから通称「深川八幡宮(ふかがわはちまんぐう)」ともいわれています。

 

主祭神は「品陀和気命(ほむだわけのみこと)」、すなわち「八幡神(やはたのかみ/はちまんしん)」とされる「応神天皇(おうじんてんのう)」です。そのほかに相殿神として「神功皇后(じんぐうこうごう)」、「仁徳天皇(にんとくてんのう)」、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」、「常磐社神(ときわのやしろのかみ)」、「武内宿禰命(たけしうちのすくね/たけうちのすくね/たけのうちのすくね)」、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、「天児屋根命(あまのこやねのみこと)」、「竈大神(かまどのおおかみ)」の八柱が祀られています。八幡神は、古くから武運の神として全国の武家から尊崇された日本固有の祭神で、実在性のない応神天皇が神格化されたものです。

 

富岡八幡宮の創建は、寛永4年(1627年)に菅原道真公の末裔といわれる長盛法印(ちょうせいほういん)という僧が神託により建てたのが始まりで、当時この辺りは永代島とよばれる砂州に浮かぶ小島でした。このため、当時は「永代嶋八幡神」と呼ばれており、その後砂州を埋め立てることで60,508坪の社有地を得ることができたとのことです。徳川将軍家は武家の棟梁ということもあり、八幡神を厚く尊崇し富岡八幡宮を保護するとともに、江戸庶民からも「深川の八幡様」として親しまれていたそうです。

 

富岡八幡宮は江戸最大の八幡宮とされ、毎年8月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つです。毎月1日、15日、28日は月次祭が行われ縁日として大変な賑わいをみせているそうです。また、江戸勧進相撲発祥の神社ということで、境内には「横綱力士碑」をはじめとした大相撲ゆかりの石碑が多数建てられています。

当時、富岡八幡宮の周囲には今の門前仲町にあたる門前町が形成され、開拓地が沖合に延長されるに従い、商業地としての賑わいをみせるようになりました。長盛法印は、このほかにも寛永元年(1624年)に「永代寺」を建立しています。こちらは富岡八幡宮の別当寺として栄えましたが、明治維新の神仏分離により廃寺となります。現在の永代寺は明治29年(1896年)に旧永代寺の塔頭(たっちゅう)であった吉祥院がその名前を引き継いだものだそうです。

 

明治維新後、富岡八幡宮は准勅祭社の社格を得ますが、この制度の廃止後は記載のない府社として皇室の尊崇を受け続けました。昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿は焼失した後、昭和31年(1956年)に現在の社殿が造営されています。この富岡八幡宮ですが、平成29年(2017年)に宮司とその運転手が、先代の宮司とその妻に日本刀で切り付けられ、宮司が殺害され、運転手が重傷となった事件は記憶に新しいところです。聖職にある人でも、一歩間違えば残忍な事件を起こすこともあるこの世の恐ろしさを垣間見た事件でした。

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