東藝術倶楽部瓦版 20200914:【江戸の町その18】桂昌院崇拝の本尊を遷座-「洲崎弁天」

おはようございます。この週末、東銀座にある歌舞伎座で、久しぶりに家族で歌舞伎を楽しんできました。一席空きのソーシャルディスタンスで、桟敷席は使われず、公演も実演と映像を組みあせた演出となっており、コロナ対策に十分配慮しているとの感じを受けました。人数制限があり、一部ごとのチケット売りで幕間はなく、値段は普段よりは割高ですが、映像では舞台裏の様子や回り舞台の仕組みなどの説明があり、非常に興味深く中身の濃い内容となっていました。演目は「鷺娘」で、坂東玉三郎の舞がとても美しかったです。玉三郎による口上の後、玉三郎自らが舞台裏や回り舞台の説明を映像での実演を行うなど、役者も歌舞伎座も努力してコロナ禍を乗り越え、如何に観客に楽しんでもらうかとい努力のあとがよくみえました。政権争いで世界に醜態をさらしつつある日本ですが、下々の間では感動する取り組みが行われています。改めて日本文化、江戸文化の素晴らしさを肌で感じる体験でした。

 

さて、 本日は「洲崎弁天(すさきべんてん)」について紹介しようと思います。洲崎弁天は以前は「洲崎弁天社」、現在では「洲崎神社(すさきじんじゃ)」と呼ばれ、東京都江東区木場に位置しています。創建は元禄3年(1700年)で、徳川五代将軍・綱吉の生母である桂昌院が崇拝していた江戸城中紅葉山の弁財天(弘法大師作と伝えられている)を、護持院(護国寺)隆光の進言により、この地に遷座したのが始まりとされています。創建には、深川海面築地普請奉行の深津八郎右衛門があたったとされています。以来、徳川家代々の守護神とされてきました。

 

御祭神は、広島の厳島神社の御分霊祭神である「市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)」です。市杵島比賣命は「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」の一柱で、神仏習合における本地垂迹では七福神の弁財天に比定されています。

 

そもそも「洲崎(すさき)」という場所は、元禄年間(1688年~1704年)に埋め立てられた土地で、古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれた海を望む景勝地だったようで、現在は江東区東陽町一丁目にあたります。江戸時代初期は、江戸城への運搬船を通すために小名木川などの河川を水路として整備し、その河口付近の湿地帯をならしました。この水路に畦を配して養魚場などにも利用されていたようです。

 

寛政3年9月(179110月)に洲崎一帯を台風による高潮が襲い、多数の死者が出る大惨事が起きます。以降、幕府は洲崎一帯に家屋の建築を禁止しますが、養殖業は盛んに行われ、潮干狩りの名所として発展していきました。

明治に入り、洲崎弁天の東側の広大な湿地が整備されます。そこに洲崎弁天町が設置され、根津遊郭が移転してきました。大正時代末期には、吉原の「北国(ほっこく)」に対する「辰巳(たつみ)」と異名をとるほどの大歓楽街として賑わいをみせていました。

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このページは、システム管理者が2020年9月14日 08:09に書いたブログ記事です。

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