東藝術倶楽部瓦版 20200918:【江戸の町その19】吉良義央も居を構えていた-「本所界隈」

おはようございます。最近は瓦版の更新が不定期になってしまい恐縮です。中国との往来が絶えて久しくなっていますが、業務はそれなりに忙しく、往来再開に向けた準備を進めつつ、現在抱えている業務を往来がないなりに進めていかなければなりません。明日からは4連休の方も多いと思いますが、私は相変わらずの生活になりそうです。菅内閣が発足しましたが、仕事も生活も大した変化なく、時が過ぎていきそうです。

 

さて、本日は「本所界隈」を紹介しようと思います。本所は東京都墨田区にある町名で、一般に墨田区のおおよそ南側半分を範囲とし、江戸の下町を構成する地域の一つとして発展してきています。下谷、浅草、深川などとともに、江戸の低地に位置し、下町の外郭を成しています。

 

本所一帯は、江戸時代に深川と並んで拡大する大江戸の新興地域として開発が進みました。江戸初期には寂れた農村地帯で、本所村、中之郷村などと呼ばれていましたが、急速に市街地として開発されるのは、明暦3年(1657年)の明暦の大火の後です。万治2年(1659年)〔寛文元年(1661年)という説もあり〕に両国橋が架けられ、万治3年(1660年)には本所築地奉行が設置されます。竪川、横川、十間川、南割下水などの堀が作られ、低地を埋め立てて宅地が造成されました。明暦の大火後の江戸府内の都市計画により、府内から押し出された町民のほかに、大火で焼け出された武家屋敷なども本所に移転しました。赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良義央の屋敷もこの本所にありました。

 

本所一帯が名実ともに江戸市中に加えられたのは享保4年(1719年)のことです。大部分は武家地や寺社地で、武家地といっても小禄の旗本や御家人が多く、町人は川沿いの一部の地域に居住していました。両国橋の東側には回向院、本所の東に広がる田畑の一角には亀戸天神や梅屋敷、龍眼寺、柳島妙見などの名所があり、訪ねる人も少なくなかったようです。

明治以降は次第に工業地帯として発展しますが、大正12年(1923年)の関東大震災や昭和20年(1945年)の東京大空襲では甚大な被害を受けます。21世紀に入り、本所一帯は錦糸町・亀戸副都心の再開発が行われ、本所北端部の押上には東京スカイツリーが建設されるなど、観光名所としても賑わいをみせています。

 

本所という言葉は、もともとは古代末期から中世に至る荘園領主の呼称として使われてきました。これが本所の地名の語源となっているようですが、詳細については分かりません。江戸時代には、本所総鎮守にあたる牛嶋神社の御旅所として賑わいをみせていたようです。現在でも牛嶋神社の門前町としての役割を担っています。

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このページは、システム管理者が2020年9月18日 10:10に書いたブログ記事です。

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