東藝術倶楽部瓦版 20200924:【江戸の町その20】二つの国に跨る繁華街-「両国」

おはようございます。台風12号が日本列島の東の海上を北上し、関東から東北にかけて大雨や強風の被害の恐れがあるとのことですが、今のところ東京は弱い雨が降っているところで、これから台風が近づくに従って雨風が強くなるのかもしれません。本日、我が調査部は、自己判断もありますが、私以外は在宅勤務となっています。自宅が近いこともあり、また電話番も必要なので出勤してはいますが、今日の業務は在宅でも十分対応できるものです。そこが部署を預かる責任者としての辛いところかもしれません。

 

さて、本日は「両国(りょうごく)」について紹介していきたいと思います。両国は、現在の東京都中央区と墨田区に跨る両国橋周辺一帯を指していますが、一方で墨田区の町名の一つにもなっており、そこは旧本所区にあたる本所地域内に属しています。

 

明暦の大火をきっかけとして万治2年(1659年)〔寛文元年(1661年)との説もあり〕に、隅田川(大川)に「大橋」が架けられます。貞享3年(1686年)〔寛永年間(1622年~1643年)との説もあり〕に南葛飾郡が武蔵国に編入されるまでは、隅田川が武蔵国と下総国との境界になっていたことから、大橋は俗に「両国橋(りょうごくばし)」と呼ばれていました。この両国橋の架橋により、隅田川の西岸の神田や日本橋地域と東岸の本所・深川地域が直接結ばれることになりました。東岸については、現在の両国を含む北側が本所、両国よりも南側が深川です。

 

もともと、両国という地名は両国橋の西岸一帯を指し、東岸一帯は「向両国(むこうりょうごく)」と呼ばれていました。西岸の両国は、その後「日本橋両国」、そして現在は「東日本橋」と地名が変遷していきます。一方、東岸は向両国から「本所東両国」、そして両国へと地名が変わりました。本所、深川の本格的な開発が始まるのは元禄年間(1688年~1704年)以降のことです。向両国と呼ばれるようになるのもその頃です。当時の西岸にあった両国は、現在の東日本橋に加え、近隣の日本橋馬喰町や日本橋横山町、日本橋久松町なども含めた広い地域を指していたようです。

江戸時代、この東西の両国界隈に設けられた広小路には、髪結床や水茶屋などの床見世のほかに、棒手振り、屋台などの露天商が立ち並んでいました。もともと広小路は日除け地であるため、常設の店舗の設置は禁じられており、仮設営業のみが許されていました。軽業や手品、浄瑠璃、講談などの見世物小屋もあって多くの人々で賑わいをみせていました。

 

明治11年(1878年)、東京市15区の設置により両国橋の西側が日本橋両国、東側が本所東両国と言われるようになります。その後の両国駅の開業や両国国技館の開館などによって、両国という地名は本所東両国を指すようになり、現在に至っています。

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このページは、システム管理者が2020年9月24日 09:37に書いたブログ記事です。

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