2020年10月アーカイブ

おはようございます。明日で10月も終わり、今年も残すところあと2カ月となりました。中国では1026日から29日まで、中国共産党第19期中央委員会第5回全体会議(五中全会)が開催され、来年から始まる第14次五カ年計画と2035年までの長期計画が話し合われ、方向性が話し合われました。新聞報道でも話題になったように、米中対立やコロナ禍でのサプライチェーンの分断懸念を教訓に、内需主導を軸に海外循環と国内循環をうまく連結し、海外からの圧力にも耐え得る経済システム「双循環」を構築しようとする方針が打ち出されています。こうした抽象的な方針を如何に具体化していくかが、今後の経済運営の課題となります。日本にはこうした全体ビジョンがなく、暗中模索の中で将来的な不安だけが残る状態となっています。

 

さて、本日は「向島百花園(むこうじまひゃっかえん)」について紹介したいと思います。向島百花園は、東京都墨田区東向島にある都立公園で、四季折々の草花を楽しむことができます。中でも早春の梅と秋の萩のトンネルは有名で人気を博しています。

 

もともとは、仙台出身の骨董商・佐原鞠塢(さはらきくう)〔通称:北野屋平兵衛〕が文化元年(1804年)に開園した民間の庭園で、旗本の多賀氏の屋敷の土地を買い取って造園したものです。開園当初は360本もの梅野木を植えたことから、亀戸の梅屋敷に倣って「新梅屋敷」、あるいは「花屋敷」などとも呼ばれました。

 

その後、文化6年(1809年)には「百花園(ひゃっかえん)」と呼ばれるようになります。ミヤギノハギ、筑波のススキなど、中国の『詩経』や日本の『万葉集』等の古典に詠まれている植物を集め、四季折々の花が楽しめるようにしました。江戸時代には多くの文人墨客が頻繁に訪れ、向島百花園はサロンとして利用されていました。「梅は百花に魁けて咲く」と言ったことが百花園の命名になったとされる絵師の酒井抱一(さかいほういつ)、門の額を書いた狂歌師の太田南畝らがいました。また、百花園の命名に関しては、一説には「四季百花の乱れ咲く園」という意味で付けられたとも言われています。

 

やがて向島百花園は庶民にも親しまれるようになり、茶店では百花園でとれた梅干しが茶うけに出されていたそうです。こうした庶民的なところが、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なる趣を有していたのでしょう。

民営の庭園として親しまれてきた向島百花園でしたが、明治以降の近代化の波には勝てず、度重なる洪水などの被害もあって、明治末期ころには荒廃してしまいます。しかし、これが東京都に譲渡され、昭和14年(1939年)には公営の公園として再出発しました。昭和20年(1945年)の東京大空襲による全焼を受けるも、昭和24年(1949年)に百花園として復興することなり、現在に至っています。昭和53年(1978年)には文化財保護法に基づいて国の史跡及び名勝に指定され、保護措置がとられるようになっています。

 

谷中と並んで向島の隅田川七福神は有名で、江戸時代から年初めには七福神巡りが慣例の行事になっています。向島百花園には隅田川七福神のうち、福禄寿が祀られています。

おはようございます。先ごろはだいぶ涼しくなりました。最近は極端に控えていた外部との会食ですが、昨日は久々に10時近くまで近くの中華料理屋で情報交換を行い、今日もまたメディアの人との会食と、連チャンになります。それでもソーシャルディスタンスを保ち、会食する人数も絞っています。コロナ対策にどれだけ効果があるかは分かりませんが、それでも社会通念を踏まえた上での対応です。

 

さて、本日は「向島界隈(むこうじまかいわい)」について紹介しようと思います。向島は現在の東京都墨田区中西部の地名で、地域としては本所地域に属していますが、界隈という意味では本所の北側になります。隅田川の東側沿いにあり、かつては対岸の浅草側からは島の風情と見まがうほどの自然が残った田園風景でした。

 

江戸の郊外である向島は、江戸時代に天領となり、江戸中期までは徳川将軍家の御鷹場があり、水田も広がっていました。享保年間(1716年~1736年)に八代将軍・徳川吉宗が隅田川沿いの堤の上に桜の木を植えさせてからは、花見の名所ともなり、料理茶屋などが建ち並んでいました。

 

向島の名称の由来については、隅田川西岸の浅草側から東側を望むと、隅田川を隔てて島のように見え、庶民が「川向こうの島」と呼んでいたという説があります。また、徳川将軍家の休憩所として「隅田川御殿」があり、かつてその北西に隅田川に向かって流れる内川「古隅田川」が隣接していたため、その対岸となる北西の島部を「将軍の向島」と呼んだという説もあります。向島が正式な行政地名として使われるようになったのは、明治24年(1891年)に「向島小梅町」、「向島須崎町」、「向島中ノ郷町」、「向島請地町」、「向島押上町」などの町名が成立して以降のことだそうです。

向島には、百花園などの名勝や神社仏閣等の史跡も数多くあり、当時の文人墨客がよく訪れていたそうです。それらについては、次回以降紹介していきたいと思います。

おはようございます。最近、テレビのワイドショーでも取り上げられることが減った新型コロナウイルスの話題ですが、欧州では再び猛威を振るい続けています。フランスでは何と1日の新規感染者が5万人を超え、スペインでは全土で再び緊急事態が宣言されています。東京でも収束する気配がなく、すでに累計の感染者確認者は3万人を超えました。日中間では条件付きでビジネスに限り短期往来が可能になるよう調整が行われており、業務再開は望まれるものの、科学的根拠を蔑ろにした政治的思惑で進められることに危機感を覚えざるを得ません。

 

さて、本日は「法性寺(ほっしょうじ)」を紹介しましょう。法性寺は東京都墨田区業平にある日蓮宗の寺院です。山号は「柳嶋妙見山(やなぎしまみょうけんさん)」で、旧本山は大田区池上にある大本山池上本門寺です。日蓮宗の僧侶の学問所である飯高檀林根下谷(いいだかだんりんねごやさく)から発生した法縁で、柳嶋法縁・縁頭寺となっています。院号は「玄和院(げんわいん)」で、「柳嶋妙見堂」とも呼ばれています。

 

明応元年(1492年)に法性房日遄(ほっしょうぼうにっせん)上人によって開山された寺院で、久遠実成(くおんじつじょう)本師釈迦牟尼仏の大曼荼羅を本尊としています。500年以上の歴史を持つこの寺院は、「柳嶋の妙見さま」として地元の人々に慕われています。

 

浮世絵師の葛飾北斎は、葛飾の本所の生まれであったことから「葛飾」を名乗っていたことはご存知の通りです。法性寺の妙見堂では、開運北辰妙見大菩薩を祀っており、北斎が「北斎辰政(ほくさいときまさ)」と一時期名乗ったのは、この大菩薩を信仰していたからだとも言われています。北斎は、妙見堂の師匠に破門され、生活に窮したために一時筆を折ろうとまでしたそうですが、試しに妙見堂にお祈りをしてみたのでしょう。21日間のお参りの満願の帰り道で落雷に遭って気を失いました。それから運が開けたのか、絵が売れ出して有名になり、多くの作品を手掛けるようになりました。

本堂には北斎の碑や近松門左衛門の供養碑、初代歌川豊国の筆塚なども文化財として残っています。

おはようございます。今週月曜日に中国の第3四半期の経済成長率が発表になり、前年同期比4.7%増と景気が大きく改善していることが分かりました。発表直後に中国のメディアの一つ「中国経済日報」の支局長からコメントを求められ回答したところ、写真付きで記事が掲載されました。中国語で恐縮ですが、下記のURLをご笑覧ください。

 

http://paper.ce.cn/jjrb/html/2020-10/21/content_430414.htm

https://mp.weixin.qq.com/s/9CnXqHHHICZUBilQtrk2Yw

 

尚、日本語では以下の通りとなります。

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本日、発表になった中国の第3四半期の経済成長率についてコメントします。
第3四半期が4.9%の成長となったことは、今年初頭から続くコロナウイルスを抑えつつ、上手に経済運営を行っている結果だと思います。

コロナを抑えることと、経済活動を活発化することは、まったく逆の措置が求められるわけで、コロナを抑えるためには経済活動を抑えざるを得ず、逆に経済活動を拡大すればコロナも感染が拡大するという矛盾を抱えることになります。コロナを抑えつつ経済活動を拡大するそのバランス調整は非常に難しいはずなのですが、中国はそのバランス点を見事につかんだということだと思います。



ただ、一つ分からないのは、社会消費、固定資産投資、輸出のいずれもが十分に回復していないなかで、GDPだけが回復基調にある点です。もちろん財政投入で固定資産は若干伸びていますが、社会消費と輸出はいずれも低迷したままです。一方で、工業生産とサービス業の回復が経済成長を押し上げているという日本のメディアの分析もありますが、消費が低迷したままで、どこまで今後の経済成長を支えられるか不透明なところもあります。



いずれにせよ、これから冬場に向かいコロナの感染拡大が懸念されるなか、コロナ拡大防止と経済活動拡大のバランス点が変わる可能性があり、中国政府がそれをどこまで上手く調整していくのか、注目していきたいと思います。中国を除く世界各国は、いずれもそのバランス点をうまく掴むことができませんでした。それが今もって完全拡大を抑えられない結果ですね。



日中間のビジネス再開に向けて日本経済界が注目している点は、いつ両国の間の渡航制限が解除されるかです。渡航解除の前提条件を明確に示し、その条件をクリアするための措置を早急に講じてもらいたいと思います。

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さて、本日は「龍眼寺(りゅうげんじ)」について紹介しようと思います。龍眼寺は東京都江東区亀戸にある天台宗の寺院です。山号は慈雲山(しうんざん)、院号は無量院(むりょういん)、別称「萩寺(はぎでら)」とも呼ばれています。本尊は観世音菩薩で、亀戸七福神の布袋尊の札所にもなっています。

 

応永2年(1395年)、比叡山で修業を終えて帰国の途にあった良博大和尚(りょうはくだいかしょう)〔千葉氏の出〕が観世音菩薩の夢告によって柳島辻堂の下に眠る観世音菩薩像を祀り、当時村に流行していた病を平癒するために、慈雲山無量院柳源寺を創建しました。その後、寺の湧き水で洗顔すると目がよくなるとの話が広まり、眼病治癒の観世音菩薩として信仰を集め、寺院名を龍眼寺と改められました。

江戸時代初期には、住職が百種類もの萩の木を諸国から集めて境内に植えたことから、萩寺とも呼ばれ、多くの文人墨客が訪れ賑わっていたとのことです。境内には松尾芭蕉や落合直文などの句碑、歌碑があり、当時の風情を偲ばせます。

おはようございます。最近は仕事が何かと忙しく、なかなか瓦版の更新ができず恐縮です。皆さんにお伝えしたい江戸の話題はたくさんあるのですが、最近はコロナの関係もあり、外出もままならず、文献や資料に基づく話題の提供になってしまい、あまり現実味がないような気もしています。この週末、黒木代表からお電話いただき久しぶりの会話を楽しみつつ、中国にも行けず制限のある中で日中経済交流・調査事業を細々と続けている実態をお伝えしました。とはいえ、忙しい現実に変わりはありません。

 

さて、本日は東京都墨田区本所にある「牛嶋神社(うしじまじんじゃ)」について紹介してみたいと思います。牛嶋神社の社格は郷社で、旧くは「牛の御前(うしのごぜん)社」と呼ばれ、江戸時代以降は本所一帯の総鎮守として崇敬されています。

 

御祭神は「須佐之男命(すさのおのみこと)」、「天之穂日命(あめのほひのみこと)」、「貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)」の3柱です。貞観2年(860年)に第三代天台座主の慈覚大師(じかくだいし)〔円仁(えんにん)〕の御神託により創建されたとされ、最初に須佐之男命、次に天之穂日命が祀られ、最後にこの地で亡くなった清和天皇の第七皇子・貞辰親王命が祀られました。

 

治承4年(1180年)、源頼朝が大軍を率いて下総国から武蔵国に渡ろうとした際に、豪雨による洪水で渡ることができず、千葉介平常胤(ちばのすけたいらのつねたね)がここに祈願したところ、全軍が無事に渡ることができたことから、頼朝はその神徳を尊信し、翌養和元年(1181年)に社殿を造営し、多くの神領を寄進させたと伝えられています。清和源氏所縁の神社です。

牛の御前社の勅号が賜れたのは天文7年(1538年)のことで、賜ったのは御奈良院(御奈良天皇)です。江戸時代に入ると、江戸の鬼門守護の神社として将軍家の崇敬も厚く、特に三代将軍・徳川家光は本所石原新町の土地を寄進して、祭礼神輿渡御の旅所として、この地に仮宮を建てました。現在の摂社若宮はその一部です。

 

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』によると、建長3年(1251年)に、浅草寺に牛のような妖怪が出現し、食堂にいた僧侶24人が悪鬼を受けて病に侵され7人が亡くなりました。この妖怪は、隅田川から現れた「牛鬼(ぎゅうき)」という妖怪で、牛鬼は浅草の対岸にある牛嶋神社に飛び込み、「牛玉」という玉を残します。これ以降、牛鬼は神として祀られ、牛玉は神社の社宝となったということです。

おはようございます。心配されていた台風14号は本州に上陸することなく、南の海上へと離れていきましたが、伊豆諸島では土砂崩れなどの被害が出たようです。今回の台風の動きも例年とは異なる動きをみせました。日本列島を取り巻く気候も大きく変わりつつあるようです。旬の味が変わるかもしれません。

 

さて、本日もまた「亀戸天神社」について引き続き紹介しようと思います。前回、摂末社として御嶽神社、花園社、弁天社の3社を紹介しましたが、この他にも「紅梅殿(こうばいでん)」、「神牛殿(しんぎゅうでん)」があります。

 

菅原道真公といえば、やはり梅の花を思い浮かべる人が多いと思います。本殿に向かって女橋の池を挟んだところにあるのが紅梅殿です。紅梅殿は、寛文2年(1662年)に大宰府天満宮の神木である「飛梅(とびうめ)」の実生を勧請したものを祀った社です。道真公が大宰府に左遷されることが決まり、九州に向けて旅立つときに、京都の紅梅殿の庭にある日頃から可愛がっていた梅の木を見て「東風吹かば匂いおこせよ梅の花、あるじなしとて春なわすれそ」と呼んだ句は有名です。その梅の実生が道真公を慕って京都から九州まで飛んできたと言われ、それが大宰府の飛梅と呼ばれる梅の木となっています。

 

亀戸天神社の境内には300本以上の梅の木が植えれており、毎年2月第二日曜日から3月第二日曜日まで梅まつりが行われています。この時期、毎年大宰府から紅白の梅が奉納され、学校などの公共施設に寄贈されているとのことです。現在の社は昭和63年に再建されたものです。

 

本殿に向かって左側に牛の像があります。これが神牛です。この神牛像に触ると病が治り、知恵が授けられるとされています。牛は天神の神使(みつかわしめ)として厚く信仰されているのですが、実は道真公と牛との縁が非常に深いからなのです。

 

その一つが道真公が生まれたのが承和12年(845年)6月25日の乙牛(きのとうし)の年であることです。二つめは、農耕に勤しむ牛の姿に普段から慈愛の心を示していた道真公が、京都から大宰府に下向中に、どこからともなく現れた白牛の鳴き声によって刺客による難から逃れられたという故事あることです。

 

そして、三つめが、道真公の「自分の身を京都に帰すことは願わぬ」という遺言により、延喜3年(903年)に亡くなった際にご遺体を牛車におさめ四堂(よつのどう)というところに差し掛かると牛が歩みを止めて動こうとせず、この場所を墓所と定めたと言われていることです。その後、延喜5年(905年)の乙牛の年にご墓所の上に祀廟が創建され、これが大宰府天満宮の起源となりました。

摂末社のほかに、大鳥居をくぐった右脇に「筆塚(ふでづか)」があります。空海や小野道風に並ぶ能書家と称えられた道真公の筆跡は神筆と称され、道真公は「書道の神」としても崇められています。7月の筆塚祭には、書道の上達と学問の向上を願う人たちが使い古した筆を納め、さらなる上達・向上を祈願するそうです。

 

以上で亀戸天神社の紹介を終わります。

おはようございます。台風14号の刺激を受けて秋雨前線が活発化しており、東京も一昨日の晩から雨が降っています。今日の昼は日比谷で懇談会があるのですが、この雨の中を外出するのも憂鬱な気分です。週末は巣籠に徹します。

 

さて、本日は前回に続き「亀戸天神社」について紹介します。亀戸天神社の大鳥居をくぐると「心字池」があり、そこに3本の橋が架けられています。最初に見えてくるのが「男橋」と呼ばれる太鼓橋です。大宰府天満宮を模して造られており、池と橋を人の一生に見立てた「三世一念の理」に基づいて橋が配置されています。この男橋は人が生きてきた過去を表しています。

 

その先を歩いていくと平橋があり、ここは今が見える現在を表します。そしてその先の本殿の手前にある太鼓橋が「女橋」で、この橋は希望の未来を表しています。この三つの橋を渡るごとに身が清められ、神前へと進むというわけです。心字池と太鼓橋はその形により、神に近づく道真公の波乱の人生と重ね合わせられているようにも感じられます。

 

亀戸天神社の境内にはいくつかの摂末社(せつまつしゃ)が設けられています。その一つが「御嶽神社(みたけじんじゃ)」です。本殿の東側にあり、「卯の神」として知られる道真公の教学上の師である延暦寺第13代座主・法性坊尊意僧正が祀られています。正月初卯、二の卯、三の卯には卯槌(うづち)や卯の神札が授与されています。正月の初卯詣では江戸時代から賑わっていたようで、卯杖と卯槌は天保2年(1831年)の卯年から売られるようになったそうです。

もう一つの摂末社が「花園社(はなぞのしゃ)」です。道真公の妻、島田宣来子(のぶきこ)の方と14人の子供を祀っています。宣来子の方は道真公の同門も学者・島田忠巨の娘で、道真公の左遷の折に、妻子は全国に別々に流され苦難の道を歩んだとされています。寛文年間(1661年~1672年)に筑前花園より勧請を受けたものです。

 

三つめが「弁天社(べんてんしゃ)」です。大宰府天満宮の心字池の池畔に「志賀社」という社(やしろ)があり、それを勧請したものです。志賀社は海など広く水を護る神で、寛文5年(1665年)に勧請されました。その後、亀戸天神社の心字池を上野不忍池に見立て、この社を「弁天堂」、「弁財天堂」と呼んだことから七福神の一柱である弁財天として信仰されるようになりました。

 

亀戸天神社の紹介はまだまだ続きます。

おはようございます。朝晩はすっかりと秋らしくなってきました。暑がりの私はいまだに半そでのワイシャツで出勤していますが、それでも大分過ごしやすくなりました。明後日10月8日が二十四節気の一つの寒露です。コロナ騒ぎがなければ、大江戸散歩にも行きたいところですが、さてこの騒ぎもいつどうなるのでしょうか。

 

さて、本日は「亀戸天神社(かめいどてんじんしゃ)」について紹介しようと思います。亀戸天神社は、その名の通り東京都江東区亀戸にある神社で、学問の神として親しまれている菅原道真を祀る天満宮です。通称として「亀戸天神」、「亀戸天満宮」、「東宰府天満宮(あずまのざいふてんまんぐう)」とも呼ばれています。主祭神は天満大神(菅原道真)のほかに、菅原家の祖神である「天菩日命(あめのひほのみこと)」です。

 

江戸時代初期の正保年間(1644年~1647年)、天神信仰を広めるために諸国を巡り歩いていた九州筑紫国・大宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐(すがわらのおおとりいしんゆう)は、寛文元年(1661年)に江戸の亀戸村にたどりつきます。この信祐という神官は、菅原道真の末裔とされています。亀戸村にはもともと天神の小祠があり、ここに道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが、亀戸天神社の始まりと言われています。

明暦の大火後に新たな復興・開発の地域として定められた本所に、四代将軍・徳川家綱は鎮守神を祀るようにと現在の亀戸天神社の地に社地を寄進しました。そして、寛文2年(1662年)に太宰府天満宮に倣い亀戸天神社が造営されました。地形のほか、社殿、楼門、回廊、心字池、太鼓橋など大宰府天満宮に似せており、本殿の扁額は、本社大宰府天満宮の宮司であった西高辻信貞(にしたかつじのぶさだ)による揮毫だそうです。

 

古くは、総本社である大宰府天満宮に対して、東の宰府として「東宰府天満宮」、或いは「亀戸宰府天満宮」、「本所宰府天満宮」と呼ばれていましたが、明治6年(1873年)に社府となり「亀戸神社」と改名し、その後昭和11年(1936年)に現在の亀戸天神社となりました。

 

毎年1~2月の受験シーズンには、道真の加護を求めて絵馬を奉納する受験生で溢れ返るほか、大晦日の晩には多くの初詣の参拝客で賑わいます。

おはようございます。先週末もいろいろとありました。国際的にはトランプ米大統領がコロナに感染、入院する騒ぎがあったかと思うと、国内的には日本学術会議が候補に挙げたメンバーを政府が拒否するという騒動がありました。政府の意向に沿わない学者・研究者は国からも認められないという官邸の意思表示であり、ますます御用学者が跋扈するいびつな社会が広がる危険性が強くなります。行政も官邸主導で人事が決められることから、忖度ばかりに気を使う官僚がはびこり、まともな外交政策ができなくなります。日本は国際社会から取り残される方向に進みつつあります。

 

さて、本日は「亀戸梅屋敷(かめいどうめやしき)」について紹介しようと思います。我が東藝術倶楽部の第1回大江戸勉強会はこの亀戸梅屋敷を始めとして、先に紹介した回向院、そしてこの後に紹介していく亀戸天神などを巡り歩いたことを記憶している会員も少なくないかと思います。

 

江戸時代の初め、亀戸の辺りは民家もない田畑が広がる地域でした。明暦の大火後の寛文元年(1661年)に亀戸天神が創建されると、この地域も次第に都市化が進んできます。本所の居を構えていた呉服商の伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」がこの亀戸にあり、その庭にたくさんの見事な梅の木が生えていました。この清香庵こそが亀戸梅屋敷と言われるようになる所以です。立春の頃になると、江戸中から多くの人々が北十間川や竪川を船に乗ってやってくるなど賑わいをみせていたようです。

 

庭園の中に、長さ数十丈(約150メートル)にわたり枝が地中に入ったり出たりする一本の梅がありました。この梅を見た徳川光圀は、「まるで龍が伏しているようだ」と言って、その梅の木に「臥龍梅(がりゅうばい)」と名付けたと言われています。また、享保9年(1724年)に八代将軍・徳川吉宗が隅田川辺の鷹狩りで立ち寄った際にこの臥龍梅を見て、一旦土に入った枝が再び地上に這い出る様を生命の循環になぞらえて「世継ぎの梅」と命名して称賛したとも伝えられています。

 

ご存知の通り、亀戸梅屋敷や臥龍梅は浮世絵の題材として多く作品が作られています。特に歌川広重が安政3年(1857年)に描いた「名所江戸百景」の「亀戸梅屋敷」は有名です。ビンセント・ファン・ゴッホが描いた「ジャポニズム:梅の花」は、世界中から称賛されるほどの傑作作品となっています。

臥龍梅については、最初のものは寛政4年(1792年)頃に枯死したとされ、その後に枝から次々と根を出し、二代、三代と続いていったようです。現在、この梅屋敷は残っておらず、明治43年(1910年)に水害で完全に枯死したために梅屋敷は閉園となりました。昭和33年(1958年)に建てられた石標と一本の梅の木が当時を偲んでいるばかりです。

おはようございます。今日から10月、旧暦10月の和風月名では神無月です。日本中の八百万の神々が年に一度、出雲国の出雲大社に集まり神々が不在になるということから名付けられたと言われています。このため、出雲国(島根県)では神在月というのだそうです。それはさておき、今年も残すところあと3カ月です。1026日には中国共産党五中全会、11月3日には米国大統領選があり、世界情勢をみる上では気の抜けない日が続きます。世界中でコロナ禍が収まらぬ中、庶民の暮らしはどうなっていくのでしょうか?

 

さて、本日は「亀戸(かめいど)」について紹介したいと思います。亀戸は東京都江東区にある地名で、江東区の北部に位置しています。現在では墨田区にある錦糸町と併せて「錦糸町・亀戸副都心」の指定を東京都から受けています。ここもまた、本所地域に属しています。

 

江戸時代以前、利根川が今の東京湾に流れ込んでいたことは、既にこの瓦版でも重ねて紹介してきたところですが、この古代の利根川の東京湾河口に土砂が堆積して島が作られていました。当時の利根川河口付近の分流であった中川(旧中川)と隅田川(横十間川)が接近した東西両河口の間にあたる場所で、現在の北十間川が陸地側と島を隔てていました。その流れの南岸の堆積物が島となっていました。この島が亀の形をしていたことから、この辺りは「亀島(かめじま)」、「亀ケ島(かめがしま)」、「亀津島(かめづしま)」などと呼ばれていたそうです。

 

後にこの亀島の周辺に土砂が堆積して周りの島々と合わさって陸続きになり、亀島は「亀村(かめむら)」と呼ばれるようになります。これに加えて、江戸時代に亀村にあった「臥龍梅庭(がりゅうばいてい)」の井戸「亀ケ井(かめがい)」と混同され、「亀井戸(かめいど)」と呼ばれるようになり、更に「井」が取れて亀戸になったとのことです。また、亀津島の「津」が「と」に変化したという説もあります。

寛文4年(1664年)、亀戸村のうち亀戸天神及び天神橋周辺、北十間川南岸、十間川東岸の百姓商売屋が引き立てられ、元禄10年(1697年)には一帯が町地となり、亀戸町、亀戸境町、亀戸清水町の三町が成立します。この三町は正徳3年(1713年)に本所の町地が町奉行の所管として移管された際に、町奉行と代官の双方の支配地となりました。その後、明治5年(1872年)に亀戸町以外は亀戸村に再び合併します。

 

現在の亀戸が成立するのは、明治21年(1988年)に行われた「明治の大合併」以降のことで、明治22年(1989年)の市制町村制が施行されてからです。この時以降、従来の亀戸村や新設の各村は東京市深川区、本所区へと編入されていきます。

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