東藝術倶楽部瓦版 20201012:【江戸の町その27】梅と牛に縁のある道真公-「亀戸天神社」(下)

おはようございます。心配されていた台風14号は本州に上陸することなく、南の海上へと離れていきましたが、伊豆諸島では土砂崩れなどの被害が出たようです。今回の台風の動きも例年とは異なる動きをみせました。日本列島を取り巻く気候も大きく変わりつつあるようです。旬の味が変わるかもしれません。

 

さて、本日もまた「亀戸天神社」について引き続き紹介しようと思います。前回、摂末社として御嶽神社、花園社、弁天社の3社を紹介しましたが、この他にも「紅梅殿(こうばいでん)」、「神牛殿(しんぎゅうでん)」があります。

 

菅原道真公といえば、やはり梅の花を思い浮かべる人が多いと思います。本殿に向かって女橋の池を挟んだところにあるのが紅梅殿です。紅梅殿は、寛文2年(1662年)に大宰府天満宮の神木である「飛梅(とびうめ)」の実生を勧請したものを祀った社です。道真公が大宰府に左遷されることが決まり、九州に向けて旅立つときに、京都の紅梅殿の庭にある日頃から可愛がっていた梅の木を見て「東風吹かば匂いおこせよ梅の花、あるじなしとて春なわすれそ」と呼んだ句は有名です。その梅の実生が道真公を慕って京都から九州まで飛んできたと言われ、それが大宰府の飛梅と呼ばれる梅の木となっています。

 

亀戸天神社の境内には300本以上の梅の木が植えれており、毎年2月第二日曜日から3月第二日曜日まで梅まつりが行われています。この時期、毎年大宰府から紅白の梅が奉納され、学校などの公共施設に寄贈されているとのことです。現在の社は昭和63年に再建されたものです。

 

本殿に向かって左側に牛の像があります。これが神牛です。この神牛像に触ると病が治り、知恵が授けられるとされています。牛は天神の神使(みつかわしめ)として厚く信仰されているのですが、実は道真公と牛との縁が非常に深いからなのです。

 

その一つが道真公が生まれたのが承和12年(845年)6月25日の乙牛(きのとうし)の年であることです。二つめは、農耕に勤しむ牛の姿に普段から慈愛の心を示していた道真公が、京都から大宰府に下向中に、どこからともなく現れた白牛の鳴き声によって刺客による難から逃れられたという故事あることです。

 

そして、三つめが、道真公の「自分の身を京都に帰すことは願わぬ」という遺言により、延喜3年(903年)に亡くなった際にご遺体を牛車におさめ四堂(よつのどう)というところに差し掛かると牛が歩みを止めて動こうとせず、この場所を墓所と定めたと言われていることです。その後、延喜5年(905年)の乙牛の年にご墓所の上に祀廟が創建され、これが大宰府天満宮の起源となりました。

摂末社のほかに、大鳥居をくぐった右脇に「筆塚(ふでづか)」があります。空海や小野道風に並ぶ能書家と称えられた道真公の筆跡は神筆と称され、道真公は「書道の神」としても崇められています。7月の筆塚祭には、書道の上達と学問の向上を願う人たちが使い古した筆を納め、さらなる上達・向上を祈願するそうです。

 

以上で亀戸天神社の紹介を終わります。

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このページは、システム管理者が2020年10月12日 10:32に書いたブログ記事です。

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