東藝術倶楽部瓦版 20201029:【江戸の町その31】隅田川を隔てて見える「向島界隈」

おはようございます。先ごろはだいぶ涼しくなりました。最近は極端に控えていた外部との会食ですが、昨日は久々に10時近くまで近くの中華料理屋で情報交換を行い、今日もまたメディアの人との会食と、連チャンになります。それでもソーシャルディスタンスを保ち、会食する人数も絞っています。コロナ対策にどれだけ効果があるかは分かりませんが、それでも社会通念を踏まえた上での対応です。

 

さて、本日は「向島界隈(むこうじまかいわい)」について紹介しようと思います。向島は現在の東京都墨田区中西部の地名で、地域としては本所地域に属していますが、界隈という意味では本所の北側になります。隅田川の東側沿いにあり、かつては対岸の浅草側からは島の風情と見まがうほどの自然が残った田園風景でした。

 

江戸の郊外である向島は、江戸時代に天領となり、江戸中期までは徳川将軍家の御鷹場があり、水田も広がっていました。享保年間(1716年~1736年)に八代将軍・徳川吉宗が隅田川沿いの堤の上に桜の木を植えさせてからは、花見の名所ともなり、料理茶屋などが建ち並んでいました。

 

向島の名称の由来については、隅田川西岸の浅草側から東側を望むと、隅田川を隔てて島のように見え、庶民が「川向こうの島」と呼んでいたという説があります。また、徳川将軍家の休憩所として「隅田川御殿」があり、かつてその北西に隅田川に向かって流れる内川「古隅田川」が隣接していたため、その対岸となる北西の島部を「将軍の向島」と呼んだという説もあります。向島が正式な行政地名として使われるようになったのは、明治24年(1891年)に「向島小梅町」、「向島須崎町」、「向島中ノ郷町」、「向島請地町」、「向島押上町」などの町名が成立して以降のことだそうです。

向島には、百花園などの名勝や神社仏閣等の史跡も数多くあり、当時の文人墨客がよく訪れていたそうです。それらについては、次回以降紹介していきたいと思います。

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このページは、システム管理者が2020年10月29日 10:04に書いたブログ記事です。

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