2020年11月アーカイブ

おはようございます。先日、ある中国研究仲間から面白い話を聞きました。昨今、中国では街の至るところにカメラが設置されており、顔認証による犯罪者の検挙に大いに役立っていることはニュースでも報じられている通りですが、日本ではそれを「防犯カメラ」というのに、中国では「監視カメラ」と呼んでいると。思い起こせば確かにその通りで、日本と中国の社会体制の違いを再認識される話でした。

 

さて、本日は江戸時代、麹町に店を開いていた「岩城枡屋(いわきますや)〔岩城升屋とも〕」について紹介してみたいと思います。岩城枡屋は江戸時代を代表する呉服屋で、もともと秋田の領主であった岩城氏が近江に移り住み、商人になって屋号を「枡屋」としたことに始まります。寛文7年(1667年)頃のようです。そして京、大坂に店を出し、延享3年(1746年)に江戸麹町に店を構えることになりました。

 

お得意筋である大名や旗本の屋敷が近隣に多くあったことから、岩城枡屋の商売は大いに繁盛し、全国屈指の大富豪になっていきます。しかし、やがて呉服が一般庶民に行き渡るようになる江戸後期になると、下町・日本橋に店を構えていたライバルの越後屋(後の三越)が断然と有利になっていきました。幕末に越後屋が官軍(西軍)に近づいたのに対し、岩城枡屋は幕府側の資金を支援したことも影響し、その後は衰退の一途をたどり、明治17年(1884年)に店を閉める結果となりました。

 

岩城枡屋が店を構えていた場所は現在の麹町3丁目2番地です。開店当初の間口は7間(約13メートル)、最盛期には35間(約65メートル)まで広がったといいますから、その繁栄ぶりは相当なものであったことが分かります。文政期(1818年~1830年)の半ばに制作されたと思われる「いわきますやの前の賑わい」という菊川英山が描いた錦絵があります。この絵の制作費用は岩城枡屋が出していたものと言われています。

幕末の文久3年(1863年)に「岩城枡屋事件」が起きますが、これは大坂の高麗橋に店を構えていた同じ系列の岩城枡屋で発生したもので、江戸麹町の岩城枡屋ではありません。後に新選組総長を務めた南山敬助と土方歳三が大坂の岩城枡屋に押し入った不逞浪士を撃退した事件です。場所に限らず、何かと話題になっていた岩城枡屋です。

おはようございます。昨日は我が職場の会員向けセミナーがあり、当方が講師を務めました。オンライン形式でしたが、80名ほどの方が参加し、ほとんどの方が最後まで聞いていたとのことです。セミナーの内容は、2021年の中国経済と日中経済の見通しについて、先月末に開催された中国共産党第19期中央委員会第5回全体会議(五中全会)での議論と、昨今の日中をめぐる経済情勢から分析を行ったものです。参加者からも評価の声が聞かれ、苦労して資料などをまとめた甲斐がありました。それにしても、世界的に不透明な要因が多く、見通しを立てるのは簡単なことではありません。

 

さて、本日は「番町(ばんちょう)」について紹介しようと思います。番町もまた代表的な山の手であり、現在は東京都千代田区に属する地域となっています。前回紹介した麹町に接しており、南の新宿通りと北の靖国通りに挟まれ、東端は皇居の半造濠、西端は旧江戸城外濠跡までとなっています。現在は、主に「一番町」から「六番町」まで地域が区分けされています。

 

地形的には武蔵野台地の東端の「麹町台地」と呼ばれる高台に位置し、江戸時代には将軍を直接警護する旗本の「大番組」が住まいを構えていたことから、番町の名称で呼ばれていました。江戸幕府にとって、いざという際に将軍が退避する最も可能性が高かったのが江戸城の西側で、その西の守りを固めるために大番組を住まわせたと言われています。もともと大番組が一番組から六番組まであったことの名残として、一番町から六番町までの町名が残っていますが、江戸時代の組番号と現在の丁目の境は一致していません。当時は一番町が「堀端一番町」やら「新道一番町」などと、さらに細かく分かれていたほか、規則正しく並んでいたわけではなく、後にそれらが適当にまとめられたためだと言われています。「番町に居て番町知らず」などの川柳が残っているように、江戸時代でも町名は分かりにくかったようです。

明治になると、番町周辺は皇居や中央官庁に近接していることから、政府役人の官舎や華族の屋敷として利用されるようになります。また外国の大使館も番町周辺に移ってくるようになり、現在でも英国大使館やベルギー大使館などがあります。番町に住んだ文化人も多く、武者小路実篤や与謝野鉄幹・晶子夫妻などの文人、山田耕筰や滝廉太郎などの作曲家、歌舞伎役者の初代中村吉右衛門や初代市川猿翁、三代目市川猿之助などが暮らしていました。

 

現在、この番町エリアは閑静な住宅街として知られており、大妻女子大、東京家政学院大、二松学舎大などの教育機関も少なくありません。私が現在の職場に転職したころは三番町に事務所があり、よく学生に交じって出勤したものです。現在はそのオフィスビルも高級マンションに建て替えれています。

おはようございます。新型コロナウイルス第3波の中、政府の鳴り物入りで始めたGoToキャンペーンですが、経済優先で感染症対策を講じなかった付けが今になって顕在化してきています。仕事も忙しく、もともと人混みが嫌いな私にとってはほとんどGoToの恩恵に預かることはなかった(一度だけ家族でGoTo-Eatを使いました)こともあり、今のところ私も家族も特段の異常は出ていません。職場の事務所のあるビルでは数件の発生事例はありますが、職場及び職場のある6階からは感染確認者は出ておらず、勤務体制は正常のままです。中国への渡航もままならず、こんな状態がいつまで続くのでしょうか?

 

さて、本日は山の手の一つ「麹町(こうじまち)」について紹介しようと思います。麹町は東京都千代田区にある地名で、皇居の半蔵門から国道20号線(新宿通り、麹町通り)に沿って新宿区の四谷見附までの辺りまで続く地域です。国道20号線は昔の甲州街道に沿って設けられており、新宿までの新宿通り(麹町通り)は複雑に侵食された麹町台地の中央に延びる尾根筋を一直線になるよう造成されています。

 

中世における麹町は、江戸と武蔵国府(府中)を往復する甲州街道(国府街道)沿いにありました。そこは国府に通じる「国府街道の江戸における出入口」であったことから、「国府路(こうじ)」の町という意味で、それが麹町となったという説があります。また、町内に「小路(こうじ)」が多かったからという説、幕府の麹御用を務めた「麹屋三四郎」が住んでいたからという説もあります。近年の発掘調査によれば、麹町から四谷にかけて設けられていた江戸時代の屋敷地跡から、味噌や麹を製造した手掘りの地下室「室(むろ)」が数多く発見されているとのことですが、室の存在は別に麹町に限ったわけではないので、これが町名の由来になったとは考えられません。

 

徳川家康が江戸入府後、江戸城西側の半蔵門から西に延びる甲州街道が整備され、街道沿いに町人地が形成されるようになりました。追って紹介しますが、新宿通りの北側には「番町(ばんちょう)」と呼ばれる武家屋敷が配置され、現在の麹町通り沿いには、武家の生活を支える商家が建ち並び賑わいをみせていたとのことです。町人地の先には、近江彦根藩井伊家、尾張藩徳川家、播磨明石藩松平家などの大名屋敷のほか、旗本など中下級武士の住居や集合住宅である「大縄地」がありました。

麹町は、現在は一丁目から六丁目しかありませんが、江戸時代には十三丁目までありました。半蔵門から街道に沿って一丁目から始まり西に向かって連なり、十丁目までが甲州街道の四谷御門の内側となっていました。明治11年(1878年)の郡区町村編制法によって東京の市街地に15区が編制された際に、麹町は番町、永田町、霞が関、日比谷、丸の内、大手町などとともに「麹町区」となり、その後の市制による東京市麹町区へとつながっていきます。

おはようございます。今後の新型コロナウイルス感染は「神のみぞ知る」と、西村経済再生相が述べたとの報道がなされています。確かに「人事を尽くして天命を待つ」というように、最終的な結果はなるようにしかなりませんが、それはあくまでも「人事を尽くし」た人の姿勢であり、今の日本政府の対応がどこまで「人事を尽くし」たかは、庶民の知るところではありません。これと対照的なのが中国政府の姿勢です。何かが何でも感染症を抑え込むという意気込みで政策を進め、庶民の意向など考慮されないことも少なくありません。結果として、それで良かったと言われることもあります。国情や考え方の違いによって、対応が異なるのは当然ですが、今回の感染症対策と経済対策のバランスの取り方には、最終的に目指すところの目的によって大きく差が出ることでしょう。「神のみぞ知る」などという言葉に、信念が感じられないのは私だけでしょうか?

 

さて、本日からは「山の手(やまのて)」について紹介してきたいと思います。そもそも山の手とは、低地にある下町に対して小高い山側の地域を指す言葉として使われています。山側にある方向を指すことから、山の手と言われています。一般に山の手というと、「山手線」に代表されるように東京の山の手がよく知られていますが、東京以外でも横浜市、大阪市、神戸市などでも「山の手」や「山手」といった地名が存在しています。

 

東京における山の手は、江戸時代前期に江戸城の近隣及び西側の高台に幕臣の居住地や大名屋敷として開発されたのが始まりです。山の手、下町という言葉も17世紀後半には見られており、この頃にはすでに山の手は武家屋敷、下町は町人の居住地という認識が定着していたようです。

 

江戸時代前期の山の手の地域といえば、麹町(千代田区)、四谷(新宿区)、牛込(新宿区)、赤坂(港区)、麻布(港区)、小石川(文京区)、本郷(文京区)などの地域を指していました。武家屋敷のほか神社仏閣も多く、八百八町と言われる町人の居住地は少なかったようです。江戸城防衛のため、江戸城の近辺や主要街道沿いの要地には有力な家臣に屋敷が与えられます。旗本や御家人は番町(千代田区)や駿河台(千代田区)に居住区が設けられ、それが周辺に広がっていきます。下級武士ほど江戸城から離れた場所へと移されていきました。

 

江戸時代中期になると江戸の人口も増加し、遅れて開発された下町の本所などにも武家屋敷が設けられるようになり、次第に武士と町人との住み分けの地域が曖昧となっていきます。その一方で、麹町、麻布、赤坂辺りにも町人の町が広がっていくなど、山の手と言われる地域は複雑な様相を呈するようになりました。

 

山の手と下町の範囲が本格的に広がっていくのは、大正時代以降と言われています。もともとは武蔵野台地の東端部、現在の山手線内の内側が西端となっていた山の手も、「第二山の手」と呼ばれる一帯が形成されていきます。

現在、「都心三区」と呼ばれる千代田区、中央区、港区に加えて新宿区、文京区の二区が加わって「都心五区」となり、更に渋谷区と目黒区が加わって「都心七区」といった呼び名かあります。「東京新聞」は地域版として「都心版」、「山手版」、「したまち版」に分けて発行しているようですが、そのエリア分けは以下の通りです。

都心版:千代田区、中央区、港区、新宿区、品川区、大田区、江東区、渋谷区

山手版:目黒区、世田谷区、中野区、杉並区、豊島区、板橋区、練馬区

したまち版:台東区、墨田区、荒川区、文京区、足立区、葛飾区、江戸川区、北区

 

上記の山の手と下町の区分けをみても分かるように、もともとのイメージと合わせてみても明確な定義はありません。次回以降は、山の手と言われた一つ一つの地域を見ていくことにしましょう。

おはようございます。全国的な新型コロナウイルス感染が止まりません。1日の感染者数が2,000人を超え、東京だけでも500人近くまで増えてきています。景気回復のためのGotoキャンペーンですが、第2波、第3波への対策が検討されないまま進められてきた結果であると言えるようでしょう。目の前のことばかりに捉われ、先のことが何も予想できない日本政府の対応では、複雑化する国際社会には一切通じなくなります。その弊害がすでに出てきています。

 

さて、本日は「木母寺(もくぼじ)」について紹介しようと思います。木母寺は東京都墨田区堤通にある寺院です。宗旨は天台宗、山号は梅柳山(ばいりゅうざん)、院号は墨田院で、本尊は十八代目天台座主・元三大師(がんざんだいし)〔慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)〕と地蔵菩薩、総本山は比叡山延暦寺です。ちなみに、元三大師の名称は、慈恵大師良源の命日が正月3日ということで、元日の「元」と3日の「三」をとったものとされており、元三大師は霊験が強く、「角大師」或いは「厄除大師」としても有名です。

 

木母寺は平安時代中期の貞元2年(977年)に天台宗の僧・忠円阿闍梨が、京都から人買いによってこの地に連れてこられ亡くなった梅若丸(うめわかまる)という子供を弔うために「梅若塚」を作り、その傍らに建てた念仏堂・墨田院梅若寺が始まりとされています。この念仏堂は、梅若丸の母・妙亀大明神が梅若丸の師を悼んで塚の傍らに建てたものと言われています。毎年、梅若丸の命日とされる4月15日には、梅若丸大念仏法要、謡曲「隅田川」、梅若山王権現芸道上達護摩供が行われています。

 

この梅若丸とその子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる梅若伝説は、後にこれを基にして能の「隅田川」をはじめ、歌舞伎、浄瑠璃、謡曲などの作品「隅田川物」となって世間に広まっていきました。これら隅田川物を上演するにあたり、役者が梅若丸の供養とともに興行の成功や役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣」を行ったことから、芸道上達のお寺としても広く庶民の信仰を集めるようになりました。

天正18年(1590年)、徳川家康によって梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんで「梅柳山」の山号が与えられ、慶長12年(1607年)に近衛信尹(このえのぶただ)が「梅」の字の偏「木」と旁「毎」を分けて作った現在の木母寺に改めたと伝えられています。木母寺は江戸時代に朱印状が与えられています。

 

明治に入り、神仏分離に伴う廃仏毀釈によって一度は廃寺となりましたが、明治21年(1888年)に再興されました。その後、白鬚防災団地が建設されることになり、現在の場所に移転しました。

おはようございます。昨日、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)がやっと合意に達しました。日本にとっては中国、韓国との初の自由貿易協定(FTA)となるわけですが、今回RCEPからインドが抜けたことで、RCEP内における主要国の影響力のバランスが気になるところです。今後は各国において国内手続きが行われ、発効するまでにはもうしばらく時間がかかりそうです。長年、早期締結が期待されていたRCEPは、今回、新型コロナウイルス感染により人の移動が制限を受ける中で合意されたわけですが、このタイミングでの合意にどのような意味があるのか、自分なりに考えてみたいと思います。

 

さて、本日は前回の白鬚神社でも話題に出た「蓮花寺(れんげじ)」を紹介したいと思います。蓮花寺は墨田区東向島にある寺院で、山号は清瀧山(せいりゅうざん)、宗派は真言宗智山派に属しています。

 

蓮花寺の縁起については不確かなところが少なくありません。一説によると、最明寺入道時頼(鎌倉幕府第5代執権・北条時頼)が兄の武蔵守・経時(第4代執権)の追福のために、寛元4年(1246年)に鎌倉佐介谷(さすけがやつ)に巨刹を創建し、「蓮華寺(れんげじ)」と名付け、良弁法印審範(源頼朝の外伯父)を開祖として聖徳太子の御像を安置します。その後、京都禁裏から弘法大師空海が自ら描いたとされる「女人済度厄除弘法大師」を請し、奏送を怠ってそのまま寺に安置したそうです。

 

経時の子の頼助は執権職を叔父の時頼に譲り、自らは剃髪して諸国を回ります。弘安3年(1280年)に頼助がたまたま寺島(東向島)を訪れた際に寺を建て、そこに鎌倉の蓮華寺を遷し「女人済度厄除弘法大師」を本尊として、自ら開山となります。これが今の蓮花寺というわけです。

江戸時代には、霊験あらたかな厄除けの寺島大師として有名になり、川崎大師平間寺、西新井大師総持寺とともに「江戸三大師」に数えらるようになりました。現在、蓮花寺は南葛八十八カ所霊場84番札所、隅田川二十一カ所霊場21番札所、荒川辺八十八カ所霊場7073番札所となっています。

おはようございます。全国各地で新型コロナウイルス感染の第3波が来ているようで、また感染者数が増加傾向にあります。東京はもとより、特に北海道、大阪、愛知など地方で増えており、GoToキャンペーンで観光客が増えた影響ではないかとの指摘もあります。宿泊施設の従業員の間で感染が広がっているところもあり、当初からGoToの推進を疑問視する声もあったにもかかわらず、こうした結果につながった責任は誰がとるのでしょうか。この無責任体制が蔓延している日本にどのような未来があるのでしょう?

 

さて、本日は「白鬚神社(しらひげじんじゃ)」について紹介しましょう。白髭神社は全国各地にあり、東京でも江戸川区にもありますが、ここでは墨田区東向島にある白髭神社を取り上げます。他の白髭神社と区別するために「向島白髭神社」とも呼ばれ、また隅田川七福神の札所として「寿老人(じゅろうじん)」と称されることもあります。

 

主祭神は猿田彦大神(さるたひこのかみ/さるたびこのかみ)で、このほかに天照大御神(あまてらすおおみかみ)、高皇産霊神(たかむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)、豊由気大神(とようめびめのおおかみ)、健御名方神(たけみなかたのかみ)の6柱が祀られています。社格は旧郷社で、もともとは旧寺島村(現在の東向島・墨田・堤通・京島・八広・押上辺り)の氏神として地元の人々の信仰を集めていました。主祭神の猿田彦大神は国土開拓の神とされ、人を正しく導くと信じられていることから、旅行安全、交通安全、商売繁盛、方災除の神として信仰されてきています。

 

天暦5年(951年)、関東に下向いた天台宗の僧・慈恵大師(じえだいし)〔良源(りょうげん)、元三大師(がんざんだいし)〕が滋賀白鬚神社を分霊し、この地に祀ったことがその始まりとされています。当初は同じ東向島にある真言宗智山派の寺院・蓮花寺(れんげじ)の別当西蔵院とされ、「白鬚大明神」と呼ばれていました。

平成2年(1990年)に放火により社殿が全焼、平成4年(1992年)に再建されています。白鬚神社にある狛犬一対は文化2年(1815年)の銘となっており、墨田区の登録文化財に指定されています。

おはようございます。この週末に米国大統領選の結果が出ました。民主党バイデン候補が勝利したわけですが、これからトランプ現大統領による抵抗が予想され、最終的な決着にはもうしばらく時間がかかるとのことです。バイデン候補の勝利宣言を聞いていると、これまでのアメリカファーストの方針が転換され、再び世界とのつながりを重視するグローバル戦略になると思われますが、世界が従来のような欧米中心のシステムに戻ることは考えられず、新たな世界秩序の模索が始まることでしょう。その中で、日中両国がどのような役割を果たしていくのかが注目されるところですが、現在の日本を考えるとタメ息しか出ません。

 

さて、本日は「長命寺(ちょうめいじ)」について紹介したいと思います。長命寺は東京都墨田区向島にある寺院で、もともとは「宝樹山常泉寺」と号していました。山号は「寶樹山(ほうじゅさん)〔寶珠山、寶壽山〕」、院号は「遍照院(へんじょういん)」です。宗派は天台宗となっていますが、本尊はなぜか阿弥陀如来です。弁財天も祀られており、隅田川七福神の札所ともなっています。また、東京三十三観音霊場の三十二番の札所にも指定されています。

 

長命寺の創建は平安時代に円仁によって開山されたとも言われていますが、その詳細はよく分かっていません。一説には慶長年間(1596年~1615年)とも言われています。寛永年間(1624年~1645年)に三代将軍・徳川家光が鷹狩りをした際に急に腹痛を催し、この寺の住職が加持した庭の井戸の水で薬を服用したところ、たちまち痛みが治まったことから、長命寺の寺号を与えたと言われています(家光ではなく、家康だったとの説もあります)。井戸の水は「長命水」とも呼ばれたとのことです。

古くは境内に弁天堂や芭蕉堂がありました。弁財天は河の神、水の神として祀られるわけですが、長命水が縁となって弁財天を祀るようになったようです。芭蕉堂は宝暦年間(1751年~1764年)に俳人・祇徳(ぎとく)が建てた自在庵の庵室に松尾芭蕉の像を安置したのが始まりだそうです。安政3年(1858年)に三世自在庵祇徳が庵を再興します。その際に芭蕉の雪見の句「いざさらば雪見にころぶ所まで」と刻まれた句碑を建立しました。芭蕉堂は幾度となく火災に遭い、関東大震災以後は復旧されていません。

 

長命寺と言えば、関東風の桜もちの発祥の地としても有名です。享保2年(1717年)に山本新六が隅田川の土手の桜の葉を塩漬けにした桜もちを考案して、長命寺の門前で売り始めたことが「長命寺桜もち」の由来です。桜の名所として花見の季節には多くの人が隅田堤を訪れ、この桜もちが大いに喜ばれたとのことです。

おはようございます。米大統領選の開票結果が昨日からほとんど進んでいません。最終結果はふたを開けてみないと分かりませんが、民主党バイデン候補が有利な展開に進んでいるように思えます。米中関係がギクシャクするなか、米国大統領選の動向は中国ビジネスにとっても大きく影響する要因の一つになります。

 

さて、本日は「三囲神社(みめぐりじんじゃ)」について紹介していきたいと思います。三囲神社は東京都墨田区向島にある神社で、祭神は「宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)〔倉稲魂命(うかのみたまのみこと)〕」です。宇迦之御魂命は穀物の神であり、伏見稲荷大社の主祭神、すなわち「稲荷神(お稲荷さん)」として親しまれています。もともとは水田に囲まれていた場所にあったことから「田中稲荷」と呼ばれていたそうです。

 

三囲神社の創建年代は不詳ですが、一説には弘法大師の勧請によるものと言われ、また次のような言い伝えがあります。文和年間(1353年~1355年)に近江国の三井寺の僧・源慶が東国を遍歴していた際にこの社を改築し、その時に土中から白狐に跨り右手に宝珠、左手に稲を持った老翁の像が出土しました。するとどこからともなく白狐が現れて、その神像を三度回り消え去りました。三囲神社の名称はこの言い伝えによるということです。

 

南北朝から江戸時代にかけて戦乱や隅田川の氾濫・築堤などにより何度かの遷座を経て現在の場所に鎮座するようになりました。元禄6年(1693年)の旱魃の時に、近隣の農民が三囲神社に雨ごい祈願を行っていたところに、松尾芭蕉の高弟・宝井其角が門人の白雲を伴い参拝に訪れます。その際、其角は「遊ふ田地や、田を見めぐりの神ならば」という俳句を詠みました。するとその翌日には雨が降り、三囲神社の霊験と其角の名が江戸中に広まったと言われています。この俳句には、「遊ふ田地(ゆふたち)」を「夕立(ゆうだち)」、「見めぐり」を「三囲」という言葉がかけられており、請雨と豊作の願いが込められています。

寛文12年(1673年)、伊勢の商人・三井高利が日本橋に呉服店「越後屋」を開業します。後の三越百貨店です。この三井家が同家の守護神として三囲神社を篤く信仰を寄せていることは、よく知られています。その理由というのが、第一に三囲神社の方角が日本橋の東北側、すなわち鬼門にあたることから厄除けの神としたこと、第二に「囲」の字が「井」を囲んでいるから「三井を護る」という意味に解釈されたからです。このことから、三井家は社地の拡張や社殿の造営に多くの支援を行ってきており、現在でも三井グループの篤い崇敬を受けています。

 

また、三囲神社は隅田川七福神の大国神、恵比寿神ともされています。これもまた越後屋に祀られていたものを三囲神社に遷したものと言われています。

おはようございます。米大統領選の開票が行われています。今のところ民主党・バイデン候補が有利な展開となっていますが、前回の共和党・トランプ候補の逆転劇もあり、目が離せません。先ほどミシガン州の16人がバイデン票になったとのことで、過半数の270人まではあと17人。現在のところアリゾナの11人のネバダの6人がバイデン候補有利になっており、このまま進めば民主党がギリギリで勝利する可能性が高いようにも思えます。とはいえ選挙もまた水物、明けてみるまでは分かりません。仮にバイデン候補が勝利宣言したとしても、最終的に決着するまでにはまた一波乱がありそうです。

 

さて、本日は「隅田堤(すみだづつみ/すだづつみ)」を紹介しようと思います。隅田堤とは、別名「墨堤(ぼくてい)」とも呼ばれ、東京都墨田区の向島にある三囲稲荷辺りから堤通の木母寺の際まで続く堤で、隅田川の左岸にありました。隅田川を挟んだ右岸の浅草側にあったのが日本堤です。現在は墨堤通りとなっていて、当時の面影を偲べる場所は少なくなっています。

 

隅田堤は当時の荒川(現在の隅田川)の洪水から江戸の街を守るために築造されたものです。その始まりは天正2年(1574年)に小田原北条氏が荒川沿いに築いた熊谷堤に続くものとされていますが、もともと隅田川沿いには自然堤防があったようです。

 

江戸時代には桜の名所として知られており、最初に隅田川沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661年~1673年)、四代将軍・徳川家綱のときです。当時、徳川将軍家の休息所として「隅田川御殿」が現在の堤通にあり、そこから白髭神社の北側辺りまでの間に植えられたとされています。

 

その後、八代将軍・吉宗が護岸強化と憩いの場作りを目的として、堤と並木を言問橋辺りまで延ばして地固めをさせるとともに、桜の木を植えさせます。享保2年(1717年)5月には桜の木を100本、享保11年(1726年)には桃、柳、桜の木を合計で150本植えさせたそうです。こうした木々の世話は、隅田村の名主・阪田氏が代々受け持っていました。道幅が広かったこともあり、以来この堤は多くの江戸市民で賑わう憩いの場所となっていきました。

その後、文化年間(1804年~1817年)には佐原鞠塢(さはらきくう)、朝川黙翁(あさかわもくおう)、中山卜鄰が150本、天保2年(1831年)には阪田三七郎が200株余りの桜を植えます。弘化3年(1846年)に洪水で堤が決壊し、須崎邨の宇田川総兵衛が独力で修築します。それを顕彰して村人が桜150本を植え、更に安政元年(1854年)には阪田三七郎が200株を植えたとされています。明治以降も桜が植え続けられていきました。現在、隅田公園には「墨堤植桜の碑」が建てられています。

おはようございます。いよいよ米国大統領選の投開票が行われました。米国内での評価が分かれるなか、共和党・トランプ、民主党・バイデンの高齢者対立の結果が気になるところです。投票結果をめぐる混乱が予想されるほか、結果が出るまでに時間を要するとのことで、大統領選挙をめぐる米国社会の在り方に大きな問題があるように思われます。とはいえ、日本の選挙制度が機能しているかと言えば、それも大いに疑問のあるところです。

 

さて、 本日は「堀切菖蒲園(ほりきりしょうぶえん)」について紹介しようと思います。堀切菖蒲園は、東京都葛飾区にある葛飾区所管の植物園で、その名の通り花菖蒲の名所として知られています。京成本線堀切菖蒲園駅から500メートルほど南西に向かった綾瀬川沿いにあり、その広さは8,748平方メートルにもなります。

 

江戸系の花菖蒲を中心に2006,000株の花菖蒲が植えられています。6月上旬から中旬にかけてが見ごろを迎え、それに合わせて毎年「葛飾菖蒲まつり」が開催されます。地元住民や商店街、行政などによる運営協議会により各種のイベントが開催されているそうです。

 

堀切は、江戸時代から花菖蒲の名所として広く知られていました。一説によると、江戸時代後期、堀切の百姓・小高伊左衛門が各地の花菖蒲を趣味で集めて庭に植えたのが始まりで、後に日本で最初の観光花菖蒲園となった「小高園」として開園されたとのこと。その菖蒲園の評判が広がり、12代将軍・徳川家慶や13代将軍・家定、尾張藩主・徳川斉荘(なりたか)などが立ち寄り賛辞を送ったそうです。また、江戸百景にも数えられ、鈴木春信や歌川広重の浮世絵にも描かれたほか、名所案内や紀行文にも登場しています。

 

もう一説には、室町時代に堀切村の地頭・久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて陸奥国郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて栽培を始めたというというもの。いずれにせよ、明治以降にはこの小高園の他にも「武蔵園」、「吉野園」、「観花園」、「四ツ木園」、「菖香園」、「堀切園」などの菖蒲園が開園したそうですが、二度の大戦や都市化によりそのほとんどが消滅してしまいました。

このうち、戦後に唯一復興を果たしたのが堀切園で、現在の堀切菖蒲園として公開され、その後、昭和34年(1959年)に東京都が買収して昭和50年(1975年)に葛飾区に移管、現在に至っています。花菖蒲の他にもサツキツツジ、春には牡丹、藤棚、カキツバタ、秋には萩のトンネル、冬には梅や冬桜などが咲き、四季を通じて楽しめるようです。園内には食事ができる集会施設「静観亭」がありますが予約制とのことです。

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