おはようございます。米大統領選の開票が行われています。今のところ民主党・バイデン候補が有利な展開となっていますが、前回の共和党・トランプ候補の逆転劇もあり、目が離せません。先ほどミシガン州の16人がバイデン票になったとのことで、過半数の270人まではあと17人。現在のところアリゾナの11人のネバダの6人がバイデン候補有利になっており、このまま進めば民主党がギリギリで勝利する可能性が高いようにも思えます。とはいえ選挙もまた水物、明けてみるまでは分かりません。仮にバイデン候補が勝利宣言したとしても、最終的に決着するまでにはまた一波乱がありそうです。
さて、本日は「隅田堤(すみだづつみ/すだづつみ)」を紹介しようと思います。隅田堤とは、別名「墨堤(ぼくてい)」とも呼ばれ、東京都墨田区の向島にある三囲稲荷辺りから堤通の木母寺の際まで続く堤で、隅田川の左岸にありました。隅田川を挟んだ右岸の浅草側にあったのが日本堤です。現在は墨堤通りとなっていて、当時の面影を偲べる場所は少なくなっています。
隅田堤は当時の荒川(現在の隅田川)の洪水から江戸の街を守るために築造されたものです。その始まりは天正2年(1574年)に小田原北条氏が荒川沿いに築いた熊谷堤に続くものとされていますが、もともと隅田川沿いには自然堤防があったようです。
江戸時代には桜の名所として知られており、最初に隅田川沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661年~1673年)、四代将軍・徳川家綱のときです。当時、徳川将軍家の休息所として「隅田川御殿」が現在の堤通にあり、そこから白髭神社の北側辺りまでの間に植えられたとされています。
その後、八代将軍・吉宗が護岸強化と憩いの場作りを目的として、堤と並木を言問橋辺りまで延ばして地固めをさせるとともに、桜の木を植えさせます。享保2年(1717年)5月には桜の木を100本、享保11年(1726年)には桃、柳、桜の木を合計で150本植えさせたそうです。こうした木々の世話は、隅田村の名主・阪田氏が代々受け持っていました。道幅が広かったこともあり、以来この堤は多くの江戸市民で賑わう憩いの場所となっていきました。
その後、文化年間(1804年~1817年)には佐原鞠塢(さはらきくう)、朝川黙翁(あさかわもくおう)、中山卜鄰が150本、天保2年(1831年)には阪田三七郎が200株余りの桜を植えます。弘化3年(1846年)に洪水で堤が決壊し、須崎邨の宇田川総兵衛が独力で修築します。それを顕彰して村人が桜150本を植え、更に安政元年(1854年)には阪田三七郎が200株を植えたとされています。明治以降も桜が植え続けられていきました。現在、隅田公園には「墨堤植桜の碑」が建てられています。
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