東藝術倶楽部瓦版 20201119:【江戸の町その39】梅若伝説と芸道上達-「木母寺」

おはようございます。全国的な新型コロナウイルス感染が止まりません。1日の感染者数が2,000人を超え、東京だけでも500人近くまで増えてきています。景気回復のためのGotoキャンペーンですが、第2波、第3波への対策が検討されないまま進められてきた結果であると言えるようでしょう。目の前のことばかりに捉われ、先のことが何も予想できない日本政府の対応では、複雑化する国際社会には一切通じなくなります。その弊害がすでに出てきています。

 

さて、本日は「木母寺(もくぼじ)」について紹介しようと思います。木母寺は東京都墨田区堤通にある寺院です。宗旨は天台宗、山号は梅柳山(ばいりゅうざん)、院号は墨田院で、本尊は十八代目天台座主・元三大師(がんざんだいし)〔慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)〕と地蔵菩薩、総本山は比叡山延暦寺です。ちなみに、元三大師の名称は、慈恵大師良源の命日が正月3日ということで、元日の「元」と3日の「三」をとったものとされており、元三大師は霊験が強く、「角大師」或いは「厄除大師」としても有名です。

 

木母寺は平安時代中期の貞元2年(977年)に天台宗の僧・忠円阿闍梨が、京都から人買いによってこの地に連れてこられ亡くなった梅若丸(うめわかまる)という子供を弔うために「梅若塚」を作り、その傍らに建てた念仏堂・墨田院梅若寺が始まりとされています。この念仏堂は、梅若丸の母・妙亀大明神が梅若丸の師を悼んで塚の傍らに建てたものと言われています。毎年、梅若丸の命日とされる4月15日には、梅若丸大念仏法要、謡曲「隅田川」、梅若山王権現芸道上達護摩供が行われています。

 

この梅若丸とその子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる梅若伝説は、後にこれを基にして能の「隅田川」をはじめ、歌舞伎、浄瑠璃、謡曲などの作品「隅田川物」となって世間に広まっていきました。これら隅田川物を上演するにあたり、役者が梅若丸の供養とともに興行の成功や役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣」を行ったことから、芸道上達のお寺としても広く庶民の信仰を集めるようになりました。

天正18年(1590年)、徳川家康によって梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんで「梅柳山」の山号が与えられ、慶長12年(1607年)に近衛信尹(このえのぶただ)が「梅」の字の偏「木」と旁「毎」を分けて作った現在の木母寺に改めたと伝えられています。木母寺は江戸時代に朱印状が与えられています。

 

明治に入り、神仏分離に伴う廃仏毀釈によって一度は廃寺となりましたが、明治21年(1888年)に再興されました。その後、白鬚防災団地が建設されることになり、現在の場所に移転しました。

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このページは、システム管理者が2020年11月19日 09:06に書いたブログ記事です。

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