東藝術倶楽部瓦版 20201125:【江戸の町その42】国府に通ずる国府路の町-「麹町」

おはようございます。新型コロナウイルス第3波の中、政府の鳴り物入りで始めたGoToキャンペーンですが、経済優先で感染症対策を講じなかった付けが今になって顕在化してきています。仕事も忙しく、もともと人混みが嫌いな私にとってはほとんどGoToの恩恵に預かることはなかった(一度だけ家族でGoTo-Eatを使いました)こともあり、今のところ私も家族も特段の異常は出ていません。職場の事務所のあるビルでは数件の発生事例はありますが、職場及び職場のある6階からは感染確認者は出ておらず、勤務体制は正常のままです。中国への渡航もままならず、こんな状態がいつまで続くのでしょうか?

 

さて、本日は山の手の一つ「麹町(こうじまち)」について紹介しようと思います。麹町は東京都千代田区にある地名で、皇居の半蔵門から国道20号線(新宿通り、麹町通り)に沿って新宿区の四谷見附までの辺りまで続く地域です。国道20号線は昔の甲州街道に沿って設けられており、新宿までの新宿通り(麹町通り)は複雑に侵食された麹町台地の中央に延びる尾根筋を一直線になるよう造成されています。

 

中世における麹町は、江戸と武蔵国府(府中)を往復する甲州街道(国府街道)沿いにありました。そこは国府に通じる「国府街道の江戸における出入口」であったことから、「国府路(こうじ)」の町という意味で、それが麹町となったという説があります。また、町内に「小路(こうじ)」が多かったからという説、幕府の麹御用を務めた「麹屋三四郎」が住んでいたからという説もあります。近年の発掘調査によれば、麹町から四谷にかけて設けられていた江戸時代の屋敷地跡から、味噌や麹を製造した手掘りの地下室「室(むろ)」が数多く発見されているとのことですが、室の存在は別に麹町に限ったわけではないので、これが町名の由来になったとは考えられません。

 

徳川家康が江戸入府後、江戸城西側の半蔵門から西に延びる甲州街道が整備され、街道沿いに町人地が形成されるようになりました。追って紹介しますが、新宿通りの北側には「番町(ばんちょう)」と呼ばれる武家屋敷が配置され、現在の麹町通り沿いには、武家の生活を支える商家が建ち並び賑わいをみせていたとのことです。町人地の先には、近江彦根藩井伊家、尾張藩徳川家、播磨明石藩松平家などの大名屋敷のほか、旗本など中下級武士の住居や集合住宅である「大縄地」がありました。

麹町は、現在は一丁目から六丁目しかありませんが、江戸時代には十三丁目までありました。半蔵門から街道に沿って一丁目から始まり西に向かって連なり、十丁目までが甲州街道の四谷御門の内側となっていました。明治11年(1878年)の郡区町村編制法によって東京の市街地に15区が編制された際に、麹町は番町、永田町、霞が関、日比谷、丸の内、大手町などとともに「麹町区」となり、その後の市制による東京市麹町区へとつながっていきます。

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このページは、システム管理者が2020年11月25日 08:12に書いたブログ記事です。

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