東藝術倶楽部瓦版 20201127:【江戸の町その43】番町に居て番町知らず-「番町」

おはようございます。昨日は我が職場の会員向けセミナーがあり、当方が講師を務めました。オンライン形式でしたが、80名ほどの方が参加し、ほとんどの方が最後まで聞いていたとのことです。セミナーの内容は、2021年の中国経済と日中経済の見通しについて、先月末に開催された中国共産党第19期中央委員会第5回全体会議(五中全会)での議論と、昨今の日中をめぐる経済情勢から分析を行ったものです。参加者からも評価の声が聞かれ、苦労して資料などをまとめた甲斐がありました。それにしても、世界的に不透明な要因が多く、見通しを立てるのは簡単なことではありません。

 

さて、本日は「番町(ばんちょう)」について紹介しようと思います。番町もまた代表的な山の手であり、現在は東京都千代田区に属する地域となっています。前回紹介した麹町に接しており、南の新宿通りと北の靖国通りに挟まれ、東端は皇居の半造濠、西端は旧江戸城外濠跡までとなっています。現在は、主に「一番町」から「六番町」まで地域が区分けされています。

 

地形的には武蔵野台地の東端の「麹町台地」と呼ばれる高台に位置し、江戸時代には将軍を直接警護する旗本の「大番組」が住まいを構えていたことから、番町の名称で呼ばれていました。江戸幕府にとって、いざという際に将軍が退避する最も可能性が高かったのが江戸城の西側で、その西の守りを固めるために大番組を住まわせたと言われています。もともと大番組が一番組から六番組まであったことの名残として、一番町から六番町までの町名が残っていますが、江戸時代の組番号と現在の丁目の境は一致していません。当時は一番町が「堀端一番町」やら「新道一番町」などと、さらに細かく分かれていたほか、規則正しく並んでいたわけではなく、後にそれらが適当にまとめられたためだと言われています。「番町に居て番町知らず」などの川柳が残っているように、江戸時代でも町名は分かりにくかったようです。

明治になると、番町周辺は皇居や中央官庁に近接していることから、政府役人の官舎や華族の屋敷として利用されるようになります。また外国の大使館も番町周辺に移ってくるようになり、現在でも英国大使館やベルギー大使館などがあります。番町に住んだ文化人も多く、武者小路実篤や与謝野鉄幹・晶子夫妻などの文人、山田耕筰や滝廉太郎などの作曲家、歌舞伎役者の初代中村吉右衛門や初代市川猿翁、三代目市川猿之助などが暮らしていました。

 

現在、この番町エリアは閑静な住宅街として知られており、大妻女子大、東京家政学院大、二松学舎大などの教育機関も少なくありません。私が現在の職場に転職したころは三番町に事務所があり、よく学生に交じって出勤したものです。現在はそのオフィスビルも高級マンションに建て替えれています。

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このページは、システム管理者が2020年11月27日 09:15に書いたブログ記事です。

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