東藝術倶楽部瓦版 20201130:【江戸の町その44】武家相手に商売繁盛-「岩城枡屋」

おはようございます。先日、ある中国研究仲間から面白い話を聞きました。昨今、中国では街の至るところにカメラが設置されており、顔認証による犯罪者の検挙に大いに役立っていることはニュースでも報じられている通りですが、日本ではそれを「防犯カメラ」というのに、中国では「監視カメラ」と呼んでいると。思い起こせば確かにその通りで、日本と中国の社会体制の違いを再認識される話でした。

 

さて、本日は江戸時代、麹町に店を開いていた「岩城枡屋(いわきますや)〔岩城升屋とも〕」について紹介してみたいと思います。岩城枡屋は江戸時代を代表する呉服屋で、もともと秋田の領主であった岩城氏が近江に移り住み、商人になって屋号を「枡屋」としたことに始まります。寛文7年(1667年)頃のようです。そして京、大坂に店を出し、延享3年(1746年)に江戸麹町に店を構えることになりました。

 

お得意筋である大名や旗本の屋敷が近隣に多くあったことから、岩城枡屋の商売は大いに繁盛し、全国屈指の大富豪になっていきます。しかし、やがて呉服が一般庶民に行き渡るようになる江戸後期になると、下町・日本橋に店を構えていたライバルの越後屋(後の三越)が断然と有利になっていきました。幕末に越後屋が官軍(西軍)に近づいたのに対し、岩城枡屋は幕府側の資金を支援したことも影響し、その後は衰退の一途をたどり、明治17年(1884年)に店を閉める結果となりました。

 

岩城枡屋が店を構えていた場所は現在の麹町3丁目2番地です。開店当初の間口は7間(約13メートル)、最盛期には35間(約65メートル)まで広がったといいますから、その繁栄ぶりは相当なものであったことが分かります。文政期(1818年~1830年)の半ばに制作されたと思われる「いわきますやの前の賑わい」という菊川英山が描いた錦絵があります。この絵の制作費用は岩城枡屋が出していたものと言われています。

幕末の文久3年(1863年)に「岩城枡屋事件」が起きますが、これは大坂の高麗橋に店を構えていた同じ系列の岩城枡屋で発生したもので、江戸麹町の岩城枡屋ではありません。後に新選組総長を務めた南山敬助と土方歳三が大坂の岩城枡屋に押し入った不逞浪士を撃退した事件です。場所に限らず、何かと話題になっていた岩城枡屋です。

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このページは、システム管理者が2020年11月30日 09:04に書いたブログ記事です。

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