東藝術倶楽部瓦版 20201203:【江戸の町その45】江戸庶民の豊かな生活と高い教養が生んだ「番町皿屋敷」

おはようございます。今年も残すところ1カ月を切りました。コロナで翻弄された1年で、特に何かをしたわけでもなく過ぎてしまったのですが、それでも多忙な毎日でした。文章の執筆も多かったのですが、職場内の月刊誌への寄稿やセミナーの資料作成がほとんどで、講演会やセミナーの開催は全体的に自粛ムードだったようです。我が職場でも会場でのリアル開催はなく、ネットを使ったオンライン開催がほとんどでした。移動が制限され、自由に渡航ができない社会になるとは、1年前は誰も想像し得なかったでしょう。これからも、こうした想定外の現象が続くのかもしれません。不確実性の時代です。

 

さて、本日は「番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)」について紹介しようと思います。そもそも「皿屋敷」というのは、恨みを抱いて死んだお菊の亡霊が夜な夜な井戸で「一枚、二枚...」と皿を数えて屋敷の住人に恐怖を覚えさせる怪談話で、番町のほか播磨国姫路の「播州皿屋敷」、出雲国松江の皿屋敷、土佐国幡多郡の皿屋敷など、全国各地に類似の話が伝わっています。

 

これらの話は、江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃、講談などの題材として演じられ、人々に広く知られるようになりました。明治時代には、さらに手が加えられ怪談として新たに発表されます。そして大正時代には、番町皿屋敷は岡本綺堂により恋愛悲劇の戯曲として仕立て直されています。今ではよく知られた皿屋敷の話ですが、その話の原型は室町時代末期まで遡るとの説もあります。ただ、実態はよく分かっていません。

 

江戸においても各地で皿屋敷の話がみられますが、最も広く知られているのはやはり番町皿屋敷でしょう。この話の元となったのは講釈師・馬場文耕が宝暦8年(1758年)に発表した『皿屋敷弁疑録』と言われています。

 

牛込御門内五番町の一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があり、そこにお菊という下女が奉公していました。承応2年(1653年)正月2日、お菊は主膳が大切にしていた皿10枚のうち1枚を割ってしまい、主膳は皿一枚の代わりにお菊の中指を切り落とした上、手打ちにしようとします。お菊は監禁場所から抜け出し古井戸に身を投げてしまいます。間もなく夜ごとに井戸から「一枚、二枚...」と皿を数える声が屋敷中に響き渡るようになり、その後、主膳の奥方が生んだ子の右手に中指がなかったといいます。やがてこの話が公儀に伝わり、主膳は領地を没収されます。その後も亡霊の声が続くことから、幕府は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の依頼をし、お菊の霊を鎮めたという話です。

もちろんこの話はフィクションです。火付盗賊改の役職が設けられたのは寛文2年(1662年)で、青山主膳という火付盗賊改は存在しません。また、了誉上人は応永27年(1420年)に亡くなった人物です。そして、やがて怪談話から悲恋物語として岡本綺堂によって創作し直されるのが大正5年(1916年)のことですが、江戸時代に番町皿屋敷の怪談話が広まったのは、当時の庶民の生活の豊かさと文化・教養の高さがあったからではないでしょうか。

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このページは、システム管理者が2020年12月 3日 10:15に書いたブログ記事です。

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