おはようございます。今日は二十四節気のうちの一つ、大雪です。今の東京では、そう雪が多く降るわけではありませんが、それでも時々雪に見舞われて交通がストップすることがあります。我が家はマンションで置いておく場所もないので、スタッドレスタイヤは持っていません。毎年、正月に長野の実家に帰郷する際には天候をみながら、関越道を走るようにしています。通常は中央道を行くのが近いのですが、清里越えの国道141号線は凍結の危険性があるので避けています。ただ、今年は感染症防止ということで帰省は避け、東京で静かに過ごすことになりそうです。
さて、本日は「霞が関(かすみがせき)」について紹介しようと思います。霞が関は東京都千代田区南部にある地名で、地域的には麹町地域に属します。日本の行政組織の庁舎が建ち並び、中央官庁や官僚組織全体、或いは特に外務省を指す代名詞として使われることもあります。
地理的には北に皇居、東に日比谷公園があり、南は虎ノ門(港区)、西は永田町(千代田区)に接しています。西から東に向かってなだらかな傾斜となっています。永田町は海抜20メートルの高台ですが、日比谷辺りはもともと江戸湾だったこともあり1メートル前後の低地になっています。
「徒らに名をのみとめて あづま路の霞の関も春ぞくれぬる」
貞治3年(1364年)に編纂された『新拾遺和歌集』に詠まれた歌ですが、これが現在の霞が関を詠ったものだとの解釈もあり、中世には既に霞が関は東国の名所として知られていたようです。確かに、鎌倉時代には奥州古街道の要所として関名にもなっており、江戸時代へとつながっていきます。また、霞が関の名称については、古代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷の襲来に備えて、大和(やまと)からはるか雲霞(うんか)を隔てたこの地に関所を設けたことから付けられたとの説があります。平安時代には歌枕の地として多くの和歌にも詠まれています。
江戸時代に入ると、江戸城の守りの要の地域として、黒田氏、浅野氏、上杉氏など有力大名の屋敷が建ち並びます。主に外様大名の上屋敷が多かったようです。明治時代に入り、筑前福岡藩黒田氏の屋敷跡に外務省が置かれたことをきっかけに、中央官庁の集中計画が持ち上がります。予算の関係で当初はうまく事が運ばなかったものの、少しずつ体裁が整い、次第に現在の形が形成されていきました。昭和43年(1968年)竣工の日本初の超高層ビル「霞が関ビル」があるのもこの霞が関です。
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