東藝術倶楽部瓦版 20201221:【江戸の町その50】伝統ある山の手-「牛込」

おはようございます。先週は割と忙しく、瓦版の更新もままなぬまま、1週間が過ぎてしまいました。今日は冬至です。昨日は、東京と北京をオンラインで結んで「日中省エネ・環境総合フォーラム」が開催されました。東京会場は都内のホテルで梶山経済産業大臣や日中経済協会の宗岡会長が出席するなか、200名ほどが直接会場で参加したほか、ネット中継でも多くの人が聴講していました。コロナ禍で直接の交流が制限されており、こうしたオンライン形式での交流が新たなツールとして活用するため経験を積み重ねるよい機会になったかもしれません。もちろん、直接会って交流するに越したことはありません。

 

さて、 本日は「牛込(うしごめ)」について紹介しようと思います。牛込は東京都新宿区の北東部に位置する地名で、神楽坂や市谷、早稲田がこの牛込地域に属しています。牛込と言えば、お台場に移転する前のフジテレビが牛込郵便局内に私書箱を持っており、その案内を全国に向けて発信していたことから、長野県の田舎で育った私でも馴染みのある名称ではありました。

 

大宝元年(701年)に、大宝律令によって武蔵国に「神崎牛牧(かんざきぎゅうまき)」という牛の牧場が設けられ、飼育舎である「乳牛院(にゅうぎゅういん)」がこの地に建てられたそうです。東京都内には、「駒込(こまごめ)」や「馬込(まごめ)」といった馬にまつわる地名が残されており、こうした場所が馬の牧場であったとされていることから、牛込の地名はここに由来があるのではないかと言われています。

 

ただ、文献に残る牛込の地名の初見は北朝の歴応3年(1340年)に、室町幕府が「武蔵国荏原郡牛込郷闕所(けっしょ)」を江戸氏に預け置くとする内容の文書だそうです。それ以前の正安2年(1300年)に上野国の赤城山麓にある大胡の豪族・大胡彦太郎重治がこの地に移り住んだとの説が、牛込にある赤城神社に残されています。大胡氏は後に牛込の姓を名乗ることになりますが、この頃でもこの地では牛の飼育が盛んであったことは間違いないようです。

 

もともと関東管領の上杉氏の家臣であった大胡氏ですが、大胡重行の時代に北条氏康の家臣へと鞍替えをします。大永6年(1526年)頃に重行は氏康から武蔵国牛込から日比谷辺りにかけての領地をあてがわれ、息子の勝行が移封してきます。牛込氏を名乗るようになったのはこの頃で、天文24年(1555年)頃に勝行は牛込城を築いて居城としました。この城は牛込の高台にあり、領地を一望できるのと同時に、江戸湊に出入する船が監視できたと言われています。

北条氏滅亡後、徳川家康の江戸入府とともに牛込城は廃止されます。正保2年(1645年)、その跡地に神田光照寺が移転してきました。現在、その牛込城の遺構は一切残っていません。江戸時代の牛込地域は大名や旗本の武家屋敷が集中していたほか、町屋も少なからず形成されていました。伝統ある山の手の住宅街で、狭い路地などは今でも昔の姿が残っています。近代以降は夏目漱石や尾崎紅葉などの作家・文化人が数多く住んでいました。

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このページは、システム管理者が2020年12月21日 11:55に書いたブログ記事です。

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