東藝術倶楽部瓦版 20201228:【江戸の町その53】神穴から阿弥陀如来像-「穴八幡宮」

おはようございます。今年も残すところあとわずかとなりました。コロナに翻弄された1年で、特に何かをしたわけでもないのですが、何かと忙しい日々を過ごしていました。その一方で、人々の知らない間に世の中は大きく変わり、昭和を彩ってきた人たちもこの世を去っていきました。これまでの常識が常識でなくなり、非常識が常識となる時代へと突入し、そうした感覚に着いていけない人たちはどんどん淘汰されていきます。その一方で、これまで地道な努力を続け、時代の流れをみながら冷静に対処してきた人たちは頭角を現してくることでしょう。悪しきスパイラルに向かう人と、好きスパイラルに入る人の差はどんどん広がるばかりです。さて、来年はそれがはっきりと目に見えてくるものと思います。ローマは1日にしてならず、後悔先に立たず! その時になって慌ててもすでに遅し! 本日の瓦版は本年最後になります。皆様、よいお年をお迎えください。

 

さて、本日は「穴八幡宮(あなはちまんぐう)」について紹介したいと思います。穴八幡宮は東京都新宿区西早稲田に鎮座する神社で、前々回紹介した赤城神社とともに牛込の総鎮守とされています。かつては高田馬場の守護神として「高田八幡宮(たかだはちまんぐう)」とも呼ばれていました。

 

康平5年(1062年)、源義家は父・頼義とともに前九年の役にて奥州の安倍氏を滅ぼします。その凱旋の折、日本武尊命(やまとたけるのみこと)の故事にならって、この地に兜と太刀を奉納し東北鎮護の社として八幡神を祀ったのが、穴八幡宮の始まりとされています。義家は頼義の嫡男として「石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)」(京都府八幡市)で元服したことから、「八幡太郎(はちまんたろう)」とも称されています。

 

江戸時代の寛永18年(1641年)、「社守の庵」(当宮を管理する別当寺の放生会寺)を造営するために南側の山裾を切り開いたところ横穴が見つかり、そこから八幡神の本地仏である金銅の阿弥陀如来像が出てきます。これを瑞祥の神穴とし、穴八幡宮と称されるようになったとのことです。幕府祐筆であった大橋龍慶(おおはしりゅうけい)は方百間の地を献じ、壮大な社殿を造営し、この頃から神木の松が瑞光を放つなど奇瑞が生じたことから、三代将軍・徳川家光は穴八幡宮を江戸城北の総鎮守として総営繕を命ぜられました。

 

慶安元年(1648年)の社殿再興の際には、幕府から氏子として牛込郷三十六ケ町が定められ、翌慶安2年(1649年)には8,800坪を超える境内に社殿をはじめとする数々の殿舎が櫛比します。将軍家祈願所としての規模も整って、これ以降江戸屈指の大社として重んじられていきました。その後も幕府によって何度も造営・修繕が行われ、特に元禄16年(1703年)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めていたそうです。

 

享保13年(1728年)、八代将軍・吉宗は、世嗣(後の九代将軍・家重)の疱瘡平癒祈願のために穴八幡宮に流鏑馬を奉納します。この流鏑馬の奉納は将軍家の世嗣誕生や厄除け祈願として、その後も続いていきました。この将軍家の逸話から江戸庶民にも信仰が広がり、特に「虫封じ」の御利益があるとして人気を集めました。

 

安政元年(1854年)の青山火事によって社殿などが類焼し、幕府から造営料等が奉納されますが、幕末の混乱と物価高騰によって仮社殿のまま明治維新を迎えます。その後、昭和初期に旧事に盛観に復するものの、太平洋戦争で羅災します。しかし、戦後はいち早く仮社殿により再興し、現在は平成10年(1998年)に竣工した江戸権現造りの慶安・元禄当時を偲ぶ姿になっています。

穴八幡宮では、毎年、冬至から節分までの季節限定の「一陽来復御守」の授与が行われます。古来中国では、四書五経の一つ『易経』に基づいて6つの陰陽の数で旧暦月を表しています。「一陽来復(いちようらいふく)」の「一陽」は冬至を表す言葉で、6つすべてが陰となる旧暦10月から、冬至のある旧暦11月は陽が一つ現れることからそう呼ばれます。冬至には太陽の力が最も弱まり、その後回復していくから「来復」というわけです。これからは良い方向に向かうというポジティブな意味合いを持った言葉です。

 

穴八幡宮の名称の由来となった神穴は、一般公開されていませんが「出現殿」として今でも残っています。一説には穴八幡宮が鎮座する小高い丘は前方後円墳ではないかともいわれています。

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このページは、システム管理者が2020年12月28日 10:42に書いたブログ記事です。

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