東藝術倶楽部瓦版 20210106:【江戸の町その55】源頼朝が戦勝祈願-「神楽坂若宮八幡神社」

おはようございます。新型コロナウイルス蔓延とそれに伴う緊急事態宣言発動への議論で始まった2021年、まさに今年1年を象徴する出だしです。コロナの抑え込みも経済対策も中途半端で、そのどちらにも明らかに失敗している日本政府のお粗末な対応に歯痒さを覚える有識者は少なくないかと思います。このままの状態が続けば、感染症は抑え込むことはできず、また日本の財政も破綻に至ることは明らかです。それでも人々は生きていかなければなりません。さて、この先日本は、そして世界はどうなっていくのでしょうか。

 

さて、本日は「神楽坂若宮八幡神社(かぐらざかわかみやはちまんじんじゃ)」を紹介したいと思います。神楽坂若宮八幡神社は東京都新宿区若松町にある神社で、御祭神は仁徳天皇(にんとく)と応神天皇(おうじんてんのう)です。

 

文治5年(1189年)7月、右大将・源頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐する「奥州合戦」に向かう際に、この地で下馬して戦勝の宿願を行いました。同年9月に泰衡を討ち滅ぼした頼朝は、鎌倉に戻った後、ここに鎌倉の鶴岡八幡宮の御分霊を勧請します。これが神楽坂若宮八幡神社の始まりとされています。当初ここに祀られていたのは若宮である仁徳天皇だけでしたが、後に八幡神の応神天皇も一緒に祀られることになったそうです。

 

その後、神楽坂若宮八幡神社は衰退しますが、文明年間(1469年~1487年)に太田道灌が築城した江戸城の鎮護を目的として再興されます。当時は別当寺として天台宗の光明山普門院があり、神領は広大であったようです。明治以降は、明治政府による神仏分離令により落飾して神職となったと言われています。

昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲で社殿を含む施設がすべて焼失、御神体だけは持ち出され無事でした。昭和22年(1947年)に仮殿を造営して復興を果たし、完全に再建されたのは昭和34年(1954年)のことです。現在の社殿は平成11年(1999年)に造営されたものです。今の社地はかなり狭くなっており、江戸時代とはかなり異なる姿になっています。

 

ここで「八幡神(はちまんしん/やはたのかみ/やわたのかみ)」について簡単に説明しておきましょう。八幡神は日本独自の神様で、「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」とも呼ばれており、神格化した応神天皇とも言われています。源氏や平氏など武家からの信仰が厚く、八万神を祀る「八幡神社(八幡宮)」は日本全国に4万4,000社あるとされ、全国最多の「稲荷神社」に次ぐ数となっています。八幡神社の総本社は大分県宇佐市にある「宇佐神宮(宇佐八幡宮)」です。「八幡」の文字の初見は天平5年(737年)の『続日本紀』で、当時は「やはた」と読まれていました。後に神仏習合の際に「はちまん」とも読まれるようになりました。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://azuma-geijutsu.com/mt/mt-tb.cgi/456

コメントする

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、システム管理者が2021年1月 6日 19:38に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20210105:【江戸の町その54】一陽来復ならぬ一陽来福-「放生寺」」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20210108:【江戸の町その56】将門所縁の津久戸明神-「築土神社」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ