「定火消」と一致するもの

 

おはようございます。先週金曜日は、早朝からホテルニューオータニで朝食会を兼ねた会合があり、それに出席していたため、瓦版をお送りすることができませんでした。今週水曜日12日にも朝食懇談会が同じくホテルニューオータニで開催されることから、瓦版もお休みさせていただきます。年末も押し迫り、忘年会など会合が増えていきます。来週は出張もあり、年末年始も何かと仕事に追われそうです。

 

さて、本日はこれまで紹介してきた「江戸の火消の変遷」をまとめる形で説明してみたいと思います。江戸時代初期の火消は、武家、町人共に火災が起きた時の自衛組織であり、素人の集まりによる消防でした。

 

消防体制が江戸幕府によって最初に制度化されたのは、大名による武家火消で、これはあくまでも江戸城と武家屋敷を対象に消防が行われており、町人地は相変わらず町人の自衛組織による消防が行われていました。この町人地をも対象として消防活動が行われるようになったのが、明暦の大火をきっかけに、万治元年(1658年)に制度化された幕府直轄の定火消です。

 

しかし、度重なる江戸市中の火事と、その復興に伴う財政負担の大きさに耐えかねた8代将軍・徳川吉宗は、享保の改革の一環として町人主体の町火消を設置することになります。これ以降幕末にかけて、江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へとシフトしていきます。

 

享保3年(1718年)に設置された町火消は、享保5年(1720年)にいろは組47組及び本所深川16組として整備が進みます。設置当初、町火消の出動範囲は町人地に限定され、武家地への出動は行っていませんでした。しかし、この頃から町人地に隣接する武家地で火災が発生し、消し止められそうにない場合は消火活動が行われるようになりました。享保7年(1722年)には、2町(約218メートル)以内の武家屋敷での火事の際には消火活動が命じられ、各地の米蔵、金座、神社、橋梁等の重要地の消防も町火消が行うようになります。そして延享4年(1747年)の江戸城二の丸火災では、初めて町火消が江戸城内まで出動して消火活動を行うことになりました。

 

一方、武家火消の一つである方角火消は、元文元年(1736年)以降、江戸城風上の火事か大火の場合以外は出動しないことになり、文政2年(1819年)には、定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定されてしまいます。このため、郭外は武家地、町人地に関係なく町火消が消火活動を行うことになりました。

 

江戸城での町火消による消火活動としては、天保9年(1838年)の西の丸火災、天保15年(1844年)の本丸火災などがあり、いずれも町火消が目覚ましい活躍をみせたことにより、幕府から褒美が賜われたとされています。

 

安政2年(1855年)になると、定火消が10組から2組削減されて8組となり、文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止、所々火消も担当箇所が11カ所から3カ所へと大幅に削減されました。また、慶応2年(1866年)には定火消が8組から半減して4組に、翌慶応3年(1867年)には1組128人のみが定火消として残されました。こうして幕末の江戸市中の消火活動は、町火消に完全に依存するようになったのです。

 

明治元年(1868年)に武家火消はすべて廃止、江戸城の消防担当として兵部省に所属する火災防衛隊が設けられ(翌年廃止)、市中の消火活動は町火消のみとなり、やがて現在の消防団へとつながっていくのです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、北京から戻ってきました。今回の出張は災難続きで、22日に香港経由で深圳に入る際に、何と全日空便に預けた荷物がロストバゲージ!着替え5日分、スーツ1式、替えズボン1本、ネクタイ2本、ジャンバー、マフラー、手袋、傘、関連資料がなくなってしまいました。深圳では着替えを買う時間もなく、2日間同じものを着たきり雀で、さすがに2日目の夜に1着しかない下着と靴下、シャツを洗濯して、一糸まとわずの状態で、一晩中アイロンで乾かす始末。翌朝、やっと手に入れた着替えは間に合わせであったものの、それなりの値段。更に北京に着いてからは時間もない中で、急ごしらえでズボン1着、ネクタイ1本、ハーフコート、スーツケースを購入しました。時間が限られた中で、かき集めたこともあり、大したモノも買っていないのに10万円ほどかかってしまいました。昨日、羽田空港に到着した時点でスーツケースはまだ見つかっていません。誰がこれを保障してくれるのか、これから航空会社と交渉です。

 

さて、本日は制度化された「町火消(まちびけし)」について紹介していきたいと思います。町火消が本格的に制度化されたのは、8代将軍・吉宗のときです。火事によって焼失した町の復興のための幕府の財政負担は大きく、幕府財政安定化のためにも、出火への即時対応が喫緊の課題となっていました。

 

享保2年(1717年)に南町奉行に就任した大岡忠相は、翌年の享保3年(1718年)に名主たちの意見を取り入れ、火消組合(店火消のところで説明済み)の組織化を目的とした「町火消設置令」を出します。これにより、町火消が組織されるのと同時に、町火消は町奉行所の指揮下(火消人足改掛方)に置かれることになりました。とはいえ、その維持費用はそれぞれの町が負担することになってました。

 

1町につき30人ずつ動員することになり、火事が発生すると火元からみて風上の2町と風脇の左右2町、合計6町180人体制で消火活動にあたることとされました。しかし、町火消設置当初は、町の広さや人口が一様でなく、地図上で地域割りを行ったもののうまく機能しませんでした。

 

そこで、享保5年(1720年)に地域割りを修正し、20町ほどを1組として、隅田川から西を「いろは組」47組が担当し、東の本所、深川を16組の町火消が担当する組織作りが行われました。時代劇でお馴染みの町火消の誕生です。混乱する火事場でそれぞれ何組かが分かるように、各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)を作らせましたが、これが次第に各組を象徴するものとなっていきました。

 

享保15年(1730年)、いろは47組を一番組から十番組までの10大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるようにしました。その一方で、各町ごとの火消人足の数は30人から15人へと負担を軽くし、町火消全体の数は1万7,596人から9,378人になりました。

 

その後、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わって、いろは48組となり、本所、深川の16組は北組、中組、南組の3組に分けて統括されました。

 

元文3年(1738年)、10大組のうち組の名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に併合されて大組は8組となり、この時の定員は1万642人とされています。

 

町火消の構成は、町火消を統率する「頭取(とうどり)〔人足頭取〕」、各組を統率する「頭(かしら)〔組頭〕」、「纏持・梯子持(道具持)」、「平人(ひらびと)〔鳶人足〕」、「土手組(どてぐみ)〔下人足〕」から成っていました。このうち、土手組は消火の数には含まれていませんでした。頭取は江戸全体で270人ほどいたようで、一老、二老、御職の階級があり、御職は「顔役」とも呼ばれて、江戸市中でもよく知られる存在でした。

 

人足には「店人足」と呼ばれる一般の町人と、「鳶人足」と呼ばれる鳶職人による人足がいました。江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐための「破壊消防」が主であったことから、身体能力の高い鳶人足が消火活動の主役だったことが分かります。元文3年の大組改正の際の店人足と鳶人足の数は、それぞれ6,565人と4,077人とのことです。

 

町火消は毎年正月4日に、各組の町内で梯子乗り木遣り歌(きやりうた)を披露する初出(はつで)を行いました。これは定火消が行っていた出初に倣って始められたものです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。週末もあっという間に過ぎ、また新たな一週間が始まりました。これまでの無理が祟ったのか、あまり体調がすぐれず、ついウトウトっとしてしまうことが多いこの頃です。最近、車の運転はほとんど息子に任せているので、運転の機会はなくなりましたが、一昨日の土曜日に、娘の歯医者の見送りをするために、久しぶりにハンドルを握りました。何十年と運転してきましたが、それなりに緊張感をもついい機会になったかと思います。

 

さて、本日は「各自火消(かくじびけし)」について紹介したいと思います。明暦の大火がきっかけとなって、江戸市中の消防体制が整備されるようになったことは、前回の方角火消のところで紹介した通りですが、武家火消として幕府直轄の旗本を中心に編成された消防隊「定火消(じょうびけし)」が設置されたのは、明暦の大火の翌年、万治元年(1658年)のことです。この定火消については、すでに幕府の役職で詳しく説明(瓦版20180801)しているので、本シリーズでは省略します。

 

http://azuma-geijutsu.com/mt/mt-search.cgi?search=%E5%AE%9A%E7%81%AB%E6%B6%88&IncludeBlogs=4&limit=20

 

各自火消とは、諸大名がそれぞれ自身で組織した消防隊のことを指します。各自火消もまた大名火消の一つで、諸大名は、それぞれの大名屋敷や近辺で火災が発生した際に、あくまでも自らの大名屋敷を火災から守るために組織したもので、比較的早い時期から存在していたと思われます。

 

天和元年(1681年)、幕府から各大名に対して、近所で火災が発生した場合に、家来に消火にあたるよう指示が出されます。これが享保2年(1717年)に、各大名の近隣火災に対する消火活動への参加が義務付けられることになりました。このため、こうした火消のことを「近所火消(きんじょびけし)」とも呼ばれていました。近所火消は、各大名の上屋敷のほか、中屋敷や下屋敷からも消火活動への出動が命じられています。この定められた出動範囲により、「三町火消」、「五町火消」、「八町火消」などの別称もあったようです。また、縁戚の屋敷や菩提寺など、近隣の範囲を越えて消火に駆けつける場合には、「見舞火消(みまいびけし)」とも呼ばれていました。

 

各自火消の中で特に有名なのが、加賀前田藩が組織した「加賀鳶(かがとび)」です。加賀鳶は3組から成り、その派手な装束と比類なき働きぶりで評価されていたものの、あまりの威勢の激しさに喧嘩になることも少なくなく、別称「喧嘩鳶」とも呼ばれていました。

 

旗本に対しては、享保7年(1722年)に、「飛火防組合(とびひふせぎくみあい)」として65組が編制され、組合内での火災の際に出動するよう命じられていました。

 

以上みてきたように、江戸の消防体制については、明暦の大火とともに、実は8代将軍・吉宗によって行われた享保の改革の際にも、所々火消や方角火消の再編が行われるなど整備が進んだことが分かります。また、この頃の大岡忠相が主導して制度化された「町火消」など、町人による消防組織が次第に江戸の消火活動に大きな役割を担っていくことになります。

 

高見澤

 

おはようございます。今月25日、北京で「日中省エネ・環境総合フォーラム」が開催されます。私の所属する組織もその主催者の一人になっており、これまた総動員体制でこの大イベントに臨んでいます。私自身、そのイベントの前に自動運転の調査事業で深圳に入り、その足で北京に赴き、フォーラムに参加することになります。日数的には5泊6日ですが、香港経由ということもあって移動距離は思っているほど短くはないようです。

 

さて、本日からしばらくの間は江戸の消防組織、「火消(ひけし)」について紹介していきたいと思います。江戸時代において、火消というのは、江戸の消防組織とそれに加わる構成員のことを指していました。

 

「火事と喧嘩は江戸の華(花)」ともいわれるように、とにかく江戸では頻繁に火事が起きていました。江戸幕府開幕当初の慶長6年(1601年)から幕府最後の慶応3年(1867年)までの267年間で、大火事だけで49回、小さなものも含めると1798回の火事が発生したとの研究報告もあります。

 

江戸時代初期には、まだ火消の制度が確立されていませんでしたが、度重なる出火を契機に、先ずは大名を中心とした「武家火消(ぶけびけし)」が制度化され発展していきました。江戸時代中期には、享保の改革によって「町火消(まちびけし)」が制度化され、江戸時代後期以降はこの町火消が江戸の消防活動の中核を担うようになります。

 

江戸時代の消防組織としては、武士によって組織された武家火消、町人によって組織された町火消の二つに大きく分かれますが、武家火消には大名に課役として命じられた「大名火消(だいみょうびけし)」と、幕府直轄で旗本が担っていた「定火消」に分けられます。定火消については、すでに江戸幕府の役職で詳細に説明したので、本シリーズでは特に説明しませんが、次回以降、それぞれの消防組織について紹介していきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。時の経つのも速いもので、今日から8月です。昨日の日中民商事法セミナーでのモデレーターの務めも何とか無事に終えることができました。自分がプレゼンするだけならば、他の人の講演の時間は比較的リラックスできるのですが、司会進行役となるとそうはいきません。それぞれの発表者に一言ぐらいはコメントしなければなりませんし、時間の管理もしないといけないので、中々気を抜くことができないからです。事前の準備もそれなりに大切です。

 

さて、本日は「定火消(じょうびけし)」紹介したいと思います。「火消(ひけし)」と一言でいっても、江戸時代には「大名火消(だいみょうびけし)」や「町火消(まちびけし)」など数多くのありました。火消についてはまた改めて紹介していきたいと思いますが、それだけでまた一つのシリーズができそうなほど、紹介することがたくさんあります。

 

火消の基本は大名による幕府への課役や町内の自治組織によるものでしたが、この定火消は幕府が設置した幕府直轄の消防組織で「定火消役」とも呼ばれていました。定火消が設置されるきっかけとなったのが明暦3年(1657年)の明暦の大火です。この経験から、それまでの大名火消程度では大火事には対処できないと痛感した幕府は、翌年の万治元年(1658)年に幕府直轄の消防組織を設置します。これが定火消です。若年寄支配の下、秋山正房、近藤用将、内藤政吉、町野幸宣の4名の旗本が「江戸中定火之番(定火消)」に任じられ、その配下にそれぞれ与力6騎、同心30名が置かれました。以来、定火消には3,000石以上の寄合旗本が任命されることになりました。与力・同心のほかにも、「臥煙(がえん)」と呼ばれる300人の火消人足おり、それらを雇う費用として300人扶持が加算されていました。

 

定火消に任命された旗本は、妻子とともに「火消屋敷」で居住することとされていました。火消屋敷は3,000坪の敷地があり、その中では緊急出動用の馬が用意され、高さ3丈(約9.1メートル)の火の見櫓、合図のための太鼓と半鐘などが備えられており、この火消屋敷が現在の消防署の原型だともいわれています。最初の火消屋敷は御茶之水、麹町半蔵門外、飯田町、小石川伝通院前に設けられていました。

 

当初4組で始まった定火消ですが、元禄8年(1695年)には15組に増え、その後宝永元年(1704年)には10組(定員1,280名)となります。このため「十人屋敷」、「十人火消」などとも呼ばれました。この時の火消屋敷は、赤坂溜池、赤坂門外、飯田町、市谷左内坂、小川町、御茶之水、麹町半蔵門外、駿河台、八重洲河岸、四谷門外にありました。その多くが江戸城の北西側に位置していますが、これは冬場に多い北西の風によって、火事が江戸城に延焼するのを防ぐためであったといわれています。

 

この定火消も、後に町火消の整備が進むとともに活躍の場を失っていき、寛政4年(1792年)には出動が限られ、消火範囲も小さくなりました。そして安政6年(1859年)には8組、慶応2年(1866年)には4組となりました。

 

定火消が設置された翌年万治2年(1659年)1月4日、老中・稲葉正則が定火消4組を率いて上野東照宮で気勢をあげて出初(でぞめ)を行いました。以降、毎年1月4日に出初式が行われるようになりますが、この万治2年の出初がその起源となったとされています。

 

高見澤

 

おはようございます。本日は午後から公益財団法人国際民商事法センターと中国の国家発展改革委員会の主催で「日中民商事法セミナー」が開催されます。中国からは同委員会の林念修副主任(副大臣)が出席、日本側のトップは住友商事の社長・会長を務めた宮原賢次同センター会長です。今回中国政府高官や専門家が集まる中、ハイテクセッションでモデレーターを務めることになり、昨日からその準備に勤しんでいます。

 

https://jcpage.jp/jcevent/op/181/0

 

さて、本日は「使番(つかいばん)」について紹介したいと思います。使番は、古くは「使役(つかいやく)」とも呼ばれ、元々は戦国時代に戦場で伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職で、武功第一の者の役柄でもありました。織田・豊臣時代の職名にもみられ、これが江戸幕府や諸藩へと引き継がれたものです。

 

江戸幕府においては若年寄の支配に属し、役高は1,000石、役料は500石で布衣、番方(武官)としての役柄です。元和3年(1617年)に定役となり、その時の定員は28名乃至は25名ともいわれ、その後増加して文化年間(1804年~1818年)に50名前後、幕末には更に増えて最大で112名に達しました。慶応2年(1866年)、定員は半分の56名に削減されました。

 

寛永14年(1637年)~寛永15年(1638年)の島原の乱以降、江戸時代には大規模な戦乱が発生せず、使番の役柄も次第に変わっていきます。目付とともに遠国奉行や代官等の遠方で職務にあたる幕府官吏に対する監査業務を担当することになり、将軍の代替わりの際に諸国へ巡回して大名の治績動静を巡視する「諸国巡見使(しょこくじゅんけんし)」や幼少の大大名の下でその後見監督にあたる「国目付(くにめつけ)」、大名の改易や転封の際の城受け渡しの監督、二条城・大坂城・駿府城・甲府城等の幕府役人の監督など幕府の「上使」を務めたほか、江戸市中で火災が発生した際に火勢の報告や大名火消・定火消の監督なども行いました。

 

尚、これとは別に大奥には御台所(みだいどころ)や大奥の上臈(じょうろう)〔高級女官〕と御広敷(おひろしき)役人の連絡にあたる「御使番(おつかいばん)」が設置されていました。これは大奥女中のうち御目見え以下の者の役職でした。

 

高見澤

 

おはようございます。東京都心では、昨日午後から降り始めた雨も今朝はすっかり上がり、しばらくしたら晴れ間も見え、気温が上昇するようです。最近の気温の寒暖差に、身体が付いていくのも少し時間がかかりそうです。こうした最近の異常な天候は、人間の精神にも何らかの影響を及ぼすのでしょうか? 先週の新潟や昨晩の千葉では、いずれも幼い女児が殺される痛ましい事件が起きています。常に気の休まらない事件が続きます。

 

さて、本日は「若年寄」について紹介したいと思います。江戸幕府における若年寄は、老中に次ぐ幕府の重職であり、老中が全国支配を担当していることに対し、若年寄は主に旗本や御家人の支配を中心に将軍家の家政を担当していました。

 

若年寄の始まりは、寛永10年(1633年)に3代将軍・家光が側近6人を日常の雑務を行わせる「六人衆」としたことにあると言われています。その6人は以下の通りです。藩名と石高は六人衆に就任した時期に最も近い前後の時期のものです。

松平信綱 武蔵忍藩3万石 老中を兼務

堀田正盛 武蔵川越藩3.5万石 後に老中

三浦正次 下総矢作(やはぎ)藩1万石

阿部忠秋 下野壬生(みぶ)藩2.5万石 後に老中

太田資宗 下野山川藩1.56万石

阿部重次 武蔵岩槻藩5.9万石 後に老中

 

このうち、信綱、正盛、忠秋、重次の4人が老中となり、六人衆の意義がなくなり一旦は廃止され、その職務は老中に吸収されます。しかし、その後寛文2年(1662)年に若年寄として復活しました。

 

若年寄の定員は原則として4人、小禄の譜代大名から任命され、老中、老中格、側用人に出世するための経験職でもありました。とはいえ、江戸時代に若年寄を務めた161名のうち、老中まで出世できたのはその5分の1程度と言われていますので、狭き門だったといえるでしょう。こちらも老中と同じく月番制でした。若年寄の出勤時間は朝五つ(午前8時)と老中よりも早く、退勤時間は老中が帰宅した後とされていました。

 

若年寄が所管する役職も多岐にわたりますが、そのうち旗本役の職位は以下の通りです。

西の丸留守居、鉄砲百人組頭、新番頭、持弓頭・持筒頭、定火消役(じょうびけしやく)、小姓、中奥小姓、先手頭・弓頭・鉄砲頭、目付、使番、書院番組頭、小姓組組頭、鉄砲方、西丸裏門番之頭、徒頭、小十人頭、小納戸、船手、二の丸留守居、納戸頭、腰物奉行、鷹匠頭、奥祐筆組頭

 

この他にも、江戸城内の馬、台所、歌、医薬・治療、天文、保安、物資調達等の役職が若年寄の管轄下にありました。

〔天文方も若年寄の管轄下にあった。〕

 

高見澤

1