「定火消」と一致するもの

 

おはようございます。昨日の東京は確かに暖かく、日中などはまるで桜が咲いているのではないかと思うような心地よい感じを受けました。一方、北米では体感温度が零下50℃を下回る大寒波が訪れ、逆にオーストラリアでは50℃に迫る超酷暑になっているようで、その温度差なんと100℃にも達しています。以前、零下25℃の真冬の中国吉林省長春から20℃の広東省広州まで飛行機で移動したことがあり、服装などに戸惑うこともありましたが、今回はその比ではありません。もちろん、そんな無謀の移動をした人がいるとは思えませんが...。

 

さて、本日も前回に続き「明和の大火」についてお話ししたいと思います。この大火の出火原因ですが、何と武州熊谷無宿の真秀という坊主の放火によるものでした。元々は火元となった大円寺の坊主だったようです。ちなみに「無宿(むしゅく)」とは、宗門人別改帳(現在の戸籍台帳にあたる)から名前を外された者のことで、連座制による罪が及ぶことを恐れた親族から不行跡を理由に勘当された町人、追放刑を受けた罪人、天災による飢饉や破産等で生活困難に陥った農民などです。

 

当時も今も放火は重罪です。真秀は明和9年(1772年)4月頃に捕縛されます。捕縛したのは池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公・火付盗賊改方長官の長谷川平蔵宣以(のぶため)の父で、同じ火付盗賊改方長官であった長谷川平蔵宣雄(のぶお)の配下でした。宣雄はこの功績が評価され、後に京都西町奉行に転任し、従五位下備中守に叙任されています。

 

一方、真秀は明和9年6月21日に市中引き廻しの上、千住大橋南側にあった小塚原の刑場で火刑に処されました。真秀が放火した理由はよく分かっていませんが、寺を破門された逆恨みであったとか、景気付けに数軒焼くために火を付けたら大火事になったとか、推測されています。

 

明和の大火は死者が1万人を超える大きな被害となりましたが、明暦の大火に比べると比較的被害が少なったといえます。これは明暦の大火以降、火事に対する防災対策が強化され、定火消や町火消などの消防体制が整備され、また延焼を防ぐ都市建設がある程度進んでいたからだといわれています。

 

とはいえ、江戸時代当時、目黒行人坂辺りは寺社や農家がまばらに存在していた片田舎。家屋の密集度も小さかったと思いますが、それがなぜ江戸市中に延焼していったのか、大きな疑問が残るところです。それだけ当時の空気が乾燥し、風が強かったのでしょうか? まだまだ解明されないことは多いです。

 

ところで、火元の大円寺ですが、以前紹介した「天和の大火(八百屋お七火事)」とも所縁があるようです。天和2年(1682年)の大火で焼き出されたお七の一家が避難し、寺小姓と恋仲になった寺が、この目黒行人坂の大円寺であったという説もあります。この火事の火元が駒込の大円寺であったことから、ごっちゃになったのではないかと思いますが、以下のような逸話が残されています。

 

お七と恋仲になった寺小姓・吉三は、お七の処刑後に僧となって名を「西運」と改め諸国を行脚しました。後に大円寺下の明王院(現在の雅叙園)に入り、お七の菩提を弔うため、往復十里(約40キロメートル)の道のりである浅草観音まで、夜から明け方にかけて鉦を叩き念仏を唱えるという「遠隔夜日参り一万日の行」を27年5カ月かけて成し遂げました。その際、お七が西運の夢枕に立って成仏したことを告げられました。これにより、西運は「お七地蔵尊」を造りました。このお七地蔵尊は大円寺本堂西側の阿弥陀堂に祀られており、拝観するには許可が必要だそうです。

 

西運ですが、多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基に行人坂敷石の道を造り、目黒川に石の太鼓橋を架けるなど数々の社会事業を行ったといわれています。

 

高見澤

おはようございます。昨日の午後から降り始めた雨は、東京都心でも夜遅くに霙交じりの雨となりましたが、今朝は止んで冷たい風が吹いています。東京都心は久しぶりのお湿りといったところでしょうか。一方、関東の平野部でも降雪となったところもあり、路面の凍結が心配なようですし、山沿いではかなり積もっていると聞いており、そのご苦労が伺えます。 さて、本日は「江戸の三大大火」の一つに数えられる「明和の大火」の前に起きた明和年間(1764年~1772年)の火事について紹介したいと思います。明和年間は、定火消と町火消が併存して消火活動を行ったり、町火消に竜吐水等の機械式防火用具が支給されたりなど、消火体制が確立していた時代でもありました。しかし、そうした時に起きる気の緩みが思わぬ形で大きな災難を招いてしまうこともあります。 明和3年(1766年)2月29日、日本橋堺町より出火した火災によって、江戸三座の中村座と市村座が焼失します。明和4年(1767年)4月には、八丁堀水谷町弾正橋(旧弾正橋)付近から出火し、日本橋から一橋一帯にかけての地域が焼け、日本橋通町にあった呉服・小間物問屋の白木屋(東急百貨店の前身)が焼失しました。 明和5年(1768年)4月6日、吉原(新吉原)江戸町二丁目から出火する火事が発生します。この火事で吉原遊郭が残らず焼失してしまいました。明和8年(1771年)4月28日寅の中刻(午前4時20分頃)に、今度は吉原揚屋町から出火する火事が発生します。これにより、5丁町(ごちょうまち)〔江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町(すみちょう)を示すことから新吉原の総称としても使われていた〕が全焼し、今戸、橋揚(はしば)〔いずれも東京都台東区〕、両国〔東京都墨田区〕に仮宅ができたそうです。 次回は、いよいよ
 

おはようございます。先週金曜日は、早朝からホテルニューオータニで朝食会を兼ねた会合があり、それに出席していたため、瓦版をお送りすることができませんでした。今週水曜日12日にも朝食懇談会が同じくホテルニューオータニで開催されることから、瓦版もお休みさせていただきます。年末も押し迫り、忘年会など会合が増えていきます。来週は出張もあり、年末年始も何かと仕事に追われそうです。

 

さて、本日はこれまで紹介してきた「江戸の火消の変遷」をまとめる形で説明してみたいと思います。江戸時代初期の火消は、武家、町人共に火災が起きた時の自衛組織であり、素人の集まりによる消防でした。

 

消防体制が江戸幕府によって最初に制度化されたのは、大名による武家火消で、これはあくまでも江戸城と武家屋敷を対象に消防が行われており、町人地は相変わらず町人の自衛組織による消防が行われていました。この町人地をも対象として消防活動が行われるようになったのが、明暦の大火をきっかけに、万治元年(1658年)に制度化された幕府直轄の定火消です。

 

しかし、度重なる江戸市中の火事と、その復興に伴う財政負担の大きさに耐えかねた8代将軍・徳川吉宗は、享保の改革の一環として町人主体の町火消を設置することになります。これ以降幕末にかけて、江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へとシフトしていきます。

 

享保3年(1718年)に設置された町火消は、享保5年(1720年)にいろは組47組及び本所深川16組として整備が進みます。設置当初、町火消の出動範囲は町人地に限定され、武家地への出動は行っていませんでした。しかし、この頃から町人地に隣接する武家地で火災が発生し、消し止められそうにない場合は消火活動が行われるようになりました。享保7年(1722年)には、2町(約218メートル)以内の武家屋敷での火事の際には消火活動が命じられ、各地の米蔵、金座、神社、橋梁等の重要地の消防も町火消が行うようになります。そして延享4年(1747年)の江戸城二の丸火災では、初めて町火消が江戸城内まで出動して消火活動を行うことになりました。

 

一方、武家火消の一つである方角火消は、元文元年(1736年)以降、江戸城風上の火事か大火の場合以外は出動しないことになり、文政2年(1819年)には、定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定されてしまいます。このため、郭外は武家地、町人地に関係なく町火消が消火活動を行うことになりました。

 

江戸城での町火消による消火活動としては、天保9年(1838年)の西の丸火災、天保15年(1844年)の本丸火災などがあり、いずれも町火消が目覚ましい活躍をみせたことにより、幕府から褒美が賜われたとされています。

 

安政2年(1855年)になると、定火消が10組から2組削減されて8組となり、文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止、所々火消も担当箇所が11カ所から3カ所へと大幅に削減されました。また、慶応2年(1866年)には定火消が8組から半減して4組に、翌慶応3年(1867年)には1組128人のみが定火消として残されました。こうして幕末の江戸市中の消火活動は、町火消に完全に依存するようになったのです。

 

明治元年(1868年)に武家火消はすべて廃止、江戸城の消防担当として兵部省に所属する火災防衛隊が設けられ(翌年廃止)、市中の消火活動は町火消のみとなり、やがて現在の消防団へとつながっていくのです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、北京から戻ってきました。今回の出張は災難続きで、22日に香港経由で深圳に入る際に、何と全日空便に預けた荷物がロストバゲージ!着替え5日分、スーツ1式、替えズボン1本、ネクタイ2本、ジャンバー、マフラー、手袋、傘、関連資料がなくなってしまいました。深圳では着替えを買う時間もなく、2日間同じものを着たきり雀で、さすがに2日目の夜に1着しかない下着と靴下、シャツを洗濯して、一糸まとわずの状態で、一晩中アイロンで乾かす始末。翌朝、やっと手に入れた着替えは間に合わせであったものの、それなりの値段。更に北京に着いてからは時間もない中で、急ごしらえでズボン1着、ネクタイ1本、ハーフコート、スーツケースを購入しました。時間が限られた中で、かき集めたこともあり、大したモノも買っていないのに10万円ほどかかってしまいました。昨日、羽田空港に到着した時点でスーツケースはまだ見つかっていません。誰がこれを保障してくれるのか、これから航空会社と交渉です。

 

さて、本日は制度化された「町火消(まちびけし)」について紹介していきたいと思います。町火消が本格的に制度化されたのは、8代将軍・吉宗のときです。火事によって焼失した町の復興のための幕府の財政負担は大きく、幕府財政安定化のためにも、出火への即時対応が喫緊の課題となっていました。

 

享保2年(1717年)に南町奉行に就任した大岡忠相は、翌年の享保3年(1718年)に名主たちの意見を取り入れ、火消組合(店火消のところで説明済み)の組織化を目的とした「町火消設置令」を出します。これにより、町火消が組織されるのと同時に、町火消は町奉行所の指揮下(火消人足改掛方)に置かれることになりました。とはいえ、その維持費用はそれぞれの町が負担することになってました。

 

1町につき30人ずつ動員することになり、火事が発生すると火元からみて風上の2町と風脇の左右2町、合計6町180人体制で消火活動にあたることとされました。しかし、町火消設置当初は、町の広さや人口が一様でなく、地図上で地域割りを行ったもののうまく機能しませんでした。

 

そこで、享保5年(1720年)に地域割りを修正し、20町ほどを1組として、隅田川から西を「いろは組」47組が担当し、東の本所、深川を16組の町火消が担当する組織作りが行われました。時代劇でお馴染みの町火消の誕生です。混乱する火事場でそれぞれ何組かが分かるように、各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)を作らせましたが、これが次第に各組を象徴するものとなっていきました。

 

享保15年(1730年)、いろは47組を一番組から十番組までの10大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるようにしました。その一方で、各町ごとの火消人足の数は30人から15人へと負担を軽くし、町火消全体の数は1万7,596人から9,378人になりました。

 

その後、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わって、いろは48組となり、本所、深川の16組は北組、中組、南組の3組に分けて統括されました。

 

元文3年(1738年)、10大組のうち組の名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に併合されて大組は8組となり、この時の定員は1万642人とされています。

 

町火消の構成は、町火消を統率する「頭取(とうどり)〔人足頭取〕」、各組を統率する「頭(かしら)〔組頭〕」、「纏持・梯子持(道具持)」、「平人(ひらびと)〔鳶人足〕」、「土手組(どてぐみ)〔下人足〕」から成っていました。このうち、土手組は消火の数には含まれていませんでした。頭取は江戸全体で270人ほどいたようで、一老、二老、御職の階級があり、御職は「顔役」とも呼ばれて、江戸市中でもよく知られる存在でした。

 

人足には「店人足」と呼ばれる一般の町人と、「鳶人足」と呼ばれる鳶職人による人足がいました。江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐための「破壊消防」が主であったことから、身体能力の高い鳶人足が消火活動の主役だったことが分かります。元文3年の大組改正の際の店人足と鳶人足の数は、それぞれ6,565人と4,077人とのことです。

 

町火消は毎年正月4日に、各組の町内で梯子乗り木遣り歌(きやりうた)を披露する初出(はつで)を行いました。これは定火消が行っていた出初に倣って始められたものです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。週末もあっという間に過ぎ、また新たな一週間が始まりました。これまでの無理が祟ったのか、あまり体調がすぐれず、ついウトウトっとしてしまうことが多いこの頃です。最近、車の運転はほとんど息子に任せているので、運転の機会はなくなりましたが、一昨日の土曜日に、娘の歯医者の見送りをするために、久しぶりにハンドルを握りました。何十年と運転してきましたが、それなりに緊張感をもついい機会になったかと思います。

 

さて、本日は「各自火消(かくじびけし)」について紹介したいと思います。明暦の大火がきっかけとなって、江戸市中の消防体制が整備されるようになったことは、前回の方角火消のところで紹介した通りですが、武家火消として幕府直轄の旗本を中心に編成された消防隊「定火消(じょうびけし)」が設置されたのは、明暦の大火の翌年、万治元年(1658年)のことです。この定火消については、すでに幕府の役職で詳しく説明(瓦版20180801)しているので、本シリーズでは省略します。

 

http://azuma-geijutsu.com/mt/mt-search.cgi?search=%E5%AE%9A%E7%81%AB%E6%B6%88&IncludeBlogs=4&limit=20

 

各自火消とは、諸大名がそれぞれ自身で組織した消防隊のことを指します。各自火消もまた大名火消の一つで、諸大名は、それぞれの大名屋敷や近辺で火災が発生した際に、あくまでも自らの大名屋敷を火災から守るために組織したもので、比較的早い時期から存在していたと思われます。

 

天和元年(1681年)、幕府から各大名に対して、近所で火災が発生した場合に、家来に消火にあたるよう指示が出されます。これが享保2年(1717年)に、各大名の近隣火災に対する消火活動への参加が義務付けられることになりました。このため、こうした火消のことを「近所火消(きんじょびけし)」とも呼ばれていました。近所火消は、各大名の上屋敷のほか、中屋敷や下屋敷からも消火活動への出動が命じられています。この定められた出動範囲により、「三町火消」、「五町火消」、「八町火消」などの別称もあったようです。また、縁戚の屋敷や菩提寺など、近隣の範囲を越えて消火に駆けつける場合には、「見舞火消(みまいびけし)」とも呼ばれていました。

 

各自火消の中で特に有名なのが、加賀前田藩が組織した「加賀鳶(かがとび)」です。加賀鳶は3組から成り、その派手な装束と比類なき働きぶりで評価されていたものの、あまりの威勢の激しさに喧嘩になることも少なくなく、別称「喧嘩鳶」とも呼ばれていました。

 

旗本に対しては、享保7年(1722年)に、「飛火防組合(とびひふせぎくみあい)」として65組が編制され、組合内での火災の際に出動するよう命じられていました。

 

以上みてきたように、江戸の消防体制については、明暦の大火とともに、実は8代将軍・吉宗によって行われた享保の改革の際にも、所々火消や方角火消の再編が行われるなど整備が進んだことが分かります。また、この頃の大岡忠相が主導して制度化された「町火消」など、町人による消防組織が次第に江戸の消火活動に大きな役割を担っていくことになります。

 

高見澤

 

おはようございます。今月25日、北京で「日中省エネ・環境総合フォーラム」が開催されます。私の所属する組織もその主催者の一人になっており、これまた総動員体制でこの大イベントに臨んでいます。私自身、そのイベントの前に自動運転の調査事業で深圳に入り、その足で北京に赴き、フォーラムに参加することになります。日数的には5泊6日ですが、香港経由ということもあって移動距離は思っているほど短くはないようです。

 

さて、本日からしばらくの間は江戸の消防組織、「火消(ひけし)」について紹介していきたいと思います。江戸時代において、火消というのは、江戸の消防組織とそれに加わる構成員のことを指していました。

 

「火事と喧嘩は江戸の華(花)」ともいわれるように、とにかく江戸では頻繁に火事が起きていました。江戸幕府開幕当初の慶長6年(1601年)から幕府最後の慶応3年(1867年)までの267年間で、大火事だけで49回、小さなものも含めると1798回の火事が発生したとの研究報告もあります。

 

江戸時代初期には、まだ火消の制度が確立されていませんでしたが、度重なる出火を契機に、先ずは大名を中心とした「武家火消(ぶけびけし)」が制度化され発展していきました。江戸時代中期には、享保の改革によって「町火消(まちびけし)」が制度化され、江戸時代後期以降はこの町火消が江戸の消防活動の中核を担うようになります。