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観音霊験記

観音霊験記(西國三十三箇所) 第一番から第四番

観音霊験記01

○ 画 三代歌川豊国、二代歌川広重

○ 霊験の解説文 万亭應賀

○ 出版 安政5年(1858年)~安政6年(1859年)

○ 版元 山田屋庄次郎

 

1 西國順禮第一番 紀州那智山

観音霊験記01

 御詠歌
「普陀落や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝津瀬」
解説文
和泉式部
「西國三十三番は御代々の天子も御崇敬ありて行幸もありし中に、後白河院は三十三度御参詣遊ばさる。此時、権現の御神歌に『うろよりもむろに入ぬる道なれば是ぞ佛の御国なるべき』と、此外に一首の霊歌あり。和泉式部参詣のおりふし、麓にて障のありたれば『晴やらぬ身のうき雲のたなびきて月のさはりとなるぞかなしき』と詠じて伏たる其の夜の夢に『もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりは何かくるしき』と権現の御返歌あるゆへに、心よく参詣を遂ぐふしぎの霊験に文學をはじめ挙げてかぞえ難し。委くは予が観世音略傳図繪に出せり。」万亭應賀誌

 

2 西國順禮第二番 紀三井寺

観音霊験記01

 御詠歌

「ふるさとをはるばるここに紀三井寺花の都も近くなるらん」

解説文

唐僧 威光上人

「紀三井寺は三弧の霊水なるがゆえ名とせり。上人大般若経を書写したまふかたはらへ忽然と美女来りたるに驚きて、何方のものと尋ねたれば清浄水の滝のうちにかくれしが、其後三年へてかの美女又来りて、法螺貝、如意香炉、加葉の錫杖、横道木の櫻等を献じて、我は龍女なり上人の法徳を永代信仰せんと去りたるゆへ、その品々當寺の宝物となっていまもそんせり。それのみならず其時よりして毎年七月七日には龍灯を献ずることふしぎの霊験なり。」万亭應賀

 

3 西國順禮第三番 粉河寺

観音霊験記01

御詠歌

「父母のめぐみも深き粉河寺佛の誓ひたのもしきかな」

解説文

澁川佐太夫

「佐太夫は河内の者にて、獨の子大病にうちふし医薬百計に手を尽くせども驗なく、父母かなしみにたえがたく大悲の施無畏を一心に信じたれば、不圖十四五の童来たりて子の病を 尋ねたるゆえ、加持を頼みたれば童とりあえず千手陀羅尼を読おしえけると俄に苦痛を免れしゆゑ、父歓びて童に財宝を布施したれども更に受ず。唯、病人の箸紙を取て予は紀州粉 河寺の者といひて去れり。其後本腹したれば父子を連れて其所をさまざま尋ねたれども知れず。人もなき草庵に休らひて終夜案じたるところ、不思議と仏間に光明輝きしに驚き近寄 て見れば千手の御手に子の箸筒居たれば、扨は以前の童は此御佛に在せしかと深く尊びとく参詣するを四方にひろまり、終に伊都郡の女大信者となりて住宅を御寺とせしより霊験弥 あらたなり。」万亭應賀誌

 

4 西國順禮第四番 槙尾寺

観音霊験記01

御詠歌

「深山路やひばら松ばらわけ行けば槙の尾山に駒ぞいさめる」

解説文

光明皇后

「當国いつみ郡浦田に智海上人といふあり。宮里の滝山に仏乗を信じ住けるとき、めじか来って上人の尿を嘗て孕み終に女子を産り。上人見すてがたく隣家の姥に養育をさせたりしに、元来貧しき農家なれば、かの女子七才の五月姥とかたらひて田の苗を植付居たりしに、都より藤原不比等勅願の御使としてこの巻尾寺に参詣ありしところ、観世音の霊瑞を蒙り帰路に及びくだんの女子を見るに、白玉の身より光明を放つがゆえ俄に貴び姥に乞うけて連れ立ち玉ひ、帝の御傍に侍せしめしところ、御寵愛あつかりしかば、天平元年八月后宮に立て玉ふ、すなはち是光明皇后にましまして、御身仏縁ふかきがゆゑことさら佛法を信じ玉ひ、数多精舎を建立し玉ひしこと不思議の霊験なり。」 万亭應賀誌

 

                                                           富嶽文化研究会


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