東藝術倶楽部瓦版 20200120:【江戸の川その32】二ケ領用水最大の水騒動-「溝口水騒動」

おはようございます。しばらく日本を留守にしていました。先週金曜日に上海から帰ってきましたが、中国は今月25日から始まる春節(旧正月)に向けて帰郷、旅行する人の大移動が始まっており、駅も空港も多くの人でごった返しの状態でした。結果として今回は、河南省・鄭州には行くことができず、上海及び江蘇省・蘇州での調査活動に終始することになってしまいました。大移動が始まった中国ですが、湖北省・武漢で広がっている新型コロナウイルスによる肺炎患者の広がりが懸念されています。ただ、中国国内では以前流行したSARSMARSほどの騒ぎにはなっていませんでした。

 

さて、本日は「溝口水騒動(みぞぐちみずそうどう)」について紹介したいと思います。溝口水騒動とは、文政4年(1821年)の干ばつに伴う水不足に絡んで、二ケ領用水をめぐって発生した大規模な水争いのことです。

 

文政4年(1821年)は春から降雨が少なく、日照り続きで田植えの時期になっても十分な水が賄えないような状態となっていました。稲毛領と川崎領に農業用水を供給する二ケ領用水は、多摩川の水を2カ所の取り入れ口から取水し、稲毛領久地(くじ)村内に設置した分量樋(ぶんりょうひ)〔現在は「久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)」となっている〕で川崎堀(川崎方面)、根方堀(根方・十三ケ村方面)、六ケ村堀(川辺・六ケ村方面)、久地・二子堀(久地・溝口方面)の各堀に分水していました。

水不足を憂いていた溝口村と久地村の百姓は、同年5月頃より久地分量樋の川崎堀の分水口を閉め切り、自分たちに有利なように分水量を調整していました。このため、川崎領の33カ村では農業用水はもちろんのこと、飲料水にも事欠くようになっていました。そこで川崎領の名主たちは御普請役人に訴えを起こし、同年7月4日の夕方から7日の夕方にかけて川崎領に水が流れるよう取り計らう決定が下されました。

 

しかし、同月4日夕方を過ぎても一向に水が流れてこないので、川崎領の百姓が調べてみると、溝口村名主の丸屋・鈴木七右衛門と久地村の百姓らが水番人を追い払い、分量樋の川崎堀を筵で堰き止めていたことが発覚しました。川崎領の百姓たちは役所に訴え出ますが、問題が解決しません。そこで激高した百姓たちによって、丸屋打ち壊しや犠牲者救済策などの騒動を起こすことが決められます。

 

同月6日早朝、川崎領の百姓たちは竹槍やとび口などをもって府中道口に集まり、溝口村までの4里余りを北上し、久地分量樋に殺到し、続いて名主の七右衛門宅を急襲します。道中、道筋の村々の百姓も加わって19カ村、14,000人余りの集団にまで膨れ上がっていました。一方、溝口村の七右衛門宅でも石や竹槍、熱湯を用意して迎え撃ち、川崎領の百姓と衝突しました。七右衛門宅では居室や土蔵などのほか、隣家2軒も破壊されてしましました。そのとき、七右衛門は江戸へ出向いて不在だったことから、滞在先の江戸馬喰町の御用屋敷まで追いかけていくという大騒動にまで発展しました。

 

この騒動が一段落した後、江戸幕府は名主や年寄をはじめとする関係者に厳しい罰則を与えます。分量樋を違法に堰き止めた責任者の七右衛門は江戸所払いの厳罰を受け、騒動を扇動したとされる大師河原村の百姓・粂七は10里四方追放となったほか、川崎領や久地村、溝口村の農民たちにも過料銭が課せられる罰が下されています。

 

二ケ領用水をめぐっては、大小さまざまな水騒動がある中で、この溝口水騒動が最大のものとされています。しかし、この騒動については、川崎領側には多くの記録が残っていますが、稲毛領側には残されていないとのことです。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年1月20日 09:16に書いたブログ記事です。

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