東藝術倶楽部瓦版 20210112:【江戸の町その57】百姓初の刃傷沙汰-「行元寺跡地」

東藝術倶楽部会員各位


はようございます。新型コロナウイルス感染の拡大が止まりません。政府は1都3県に緊急事態宣言を出したものの、更に拡大に様相を示す日本全国に適用するには否定的です。今朝の通勤バスはいつもより乗車する人が多く、本当に緊急事態宣言が出されているのかと思うほどでした。国民の意識とかけ離れた政府の対応、そして政府の意思とは正反対の国民の行動。日本海側では雪に強い設計がなされている北陸新幹線でも運休を出すなど、今年は年初から災難続きの日本です。日本全体にとっては前途多難なようですが、その一方で明るい未来を感じている人もいるようです。


さて、本日は「行元寺(ぎょうがんじ)跡地」について紹介してきたいと思います。行元寺は、今は東京都品川区西五反田にありますが、もともとは肴町(さかなまち)〔東京都新宿区神楽坂〕にありました。創建は不明ですが、鎌倉時代にはあったようです。行元寺自体についは、別途紹介の機会を設けるとして、ここでは行元寺跡地にまつわる話をしたいと思います。


行元寺跡地は、現在は寺内公園(じないこうえん)となっていますが、文字通り行元寺が西五反田に移転する前はここに行元寺があったわけです。寺の門前には古くから町屋兵庫町があり、江戸時代に3代将軍・徳川家光が鷹狩りに来るたびに、兵庫町の肴屋が肴を提供したことから、行元寺周辺を肴町と呼ぶようになったとのことです。


天明8年(1788年)、行元寺の境内東側を武家の住まいとして貸し出すようになり、この中に「貸地通行道」という細い路地がありました。人がやっとすれ違いできるほどの小さな通りですが、安政4年(1857年)にこの一部が遊行の地となり、ここに神楽坂の花柳界が発祥したとされています。


明治4年(1871年)、行元寺と肴町を合わせて牛込肴町の町名ができます。明治40年(1907年)に行元寺が西五反田に移転し、大正元年(1915年)に大久保通りが設置されると、その跡地は「寺内(じない)」と呼ばれるようになりました。味わい深い路地のある粋な花柳街として、山の手随一の繁華街として賑わいをみせていくことになります。




江戸時代、この行元寺で百姓による初めての刃傷沙汰、いわゆる仇討事件が起きます。明和4年(1767年)9月、10代将軍・家治の頃ですが、下総国相馬郡早尾村(茨城県結城郡)で組頭の甚内と百姓の庄蔵が口論となり、甚内が庄蔵を殺してしまいます。しかし、甚内には何のお咎めがないばかりか、5カ月後に甚内は行方をくらましてしまいました。


それから16年の歳月が経ち、天明3年(1783年)に、庄蔵の長男・富吉が肴町の行元寺の境内でたまたま甚内を発見します。そのとき、甚内は御先手・浅井小右衛門組の同心・二見丈右衛門と称していました。一方の富吉は剣術家の戸賀崎熊太郎の下僕となっていました。富吉は柳の木の下で仇討を果たし、これが当時は「天明の仇討」として有名になりました。この事件があった後、「大崎富吉復讐の碑」が建てられ、現在この碑は西五反田の行元寺にあるそうです。


高見澤


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このページは、システム管理者が2021年1月12日 08:33に書いたブログ記事です。

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