東藝術倶楽部瓦版 20210125:【江戸の町その60】都心有数の邸宅街と庶民で賑わう商業地-「赤坂」

 
東藝術倶楽部会員各位

おはようございます。この週末は全国的に厳しい寒さと雪・雨に見舞われた地域も少なくなかったかと思います。東京都心も雨が降り、関東の山沿いでは雪が降ったようです。コロナ禍の中、日本政府をどこまで信用していいのか分かりませんが、一応政府の方針に従って、週末は家で過ごすことが多く、一度買物に出たきりでした。中国湖北省武漢市で昨年都市封鎖が行われてからすでに1年が経過し、武漢の当時と現在の様子を伝えるテレビ番組も盛んに流され、何が何だか分からないままに現在に至っている気がします。先行きに対する人々の不安は高まるばかりです。

さて、本日は「赤坂」について紹介しようと思います。赤坂は東京都港区の北西部に位置する地域で、現在の行政区では赤坂、元赤坂、北青山、南青山の町名が赤坂地域に属しています。地形的には武蔵野台地の東端に位置し、赤坂台地、青山台地、麻布台地などと呼ばれる高台とその下に広がる低地の起伏に富んだ土地となっています。

赤坂の地名は江戸時代より前にはみられず、江戸初期に使われ始めたとみられています。永禄10年(1567年)にここに「人継村(ひとつぎむら)」が開拓されます。湿地帯であったことから田畑が広がっていたものと思われます。実際に過去には「赤坂田町」(現在の赤坂三丁目辺り)の地名がありましたし、人継村の地名は現在でも「一ツ木通り」の名称として引き継がれています。

江戸時代に入り、現在の元赤坂辺りに武家屋敷や町地が造られ、次第に市街地化されて、寛永年間(1624年~1645年)に江戸城の門の一つとして「赤坂御門」が建てられます。これ以降、この辺り一帯を赤坂と呼ぶようになったものと思われます。赤坂の名称の由来は、茜草が群生していた赤根山に上る坂(現在の紀尾井坂)を古来「茜坂」と呼んでいたのが、いつしか転訛して赤坂となったとの説があります。また、染物屋が坂に赤い絹を干していたことから赤坂と呼ばれるようになったとの説もあります。実際に、宝暦10年(1760年)には紺屋の物干場が設けられています。

寛永13年(1636年)、南伝馬町の伝馬役3名に赤坂新伝馬町が与えられ、後に「赤坂表町」と呼ばれるようになります。現在の元赤坂一丁目から赤坂四丁目、七丁目、八丁目辺りです。

現在、元赤坂にある赤坂御用地は、寛永9年(1632年)に紀州徳川家の中屋敷が置かれていた場所で、明治5年(1872年)に天皇家に献上されて「赤坂離宮」となり、その後、江戸城焼失の際に「赤坂仮皇居」として整備されたものです。現在は赤坂迎賓館のほか、赤坂御所(旧東宮御所)、赤坂御苑、秋篠宮邸等の皇族邸などがあります。

江戸時代、名町奉行で知られる大岡越前守忠相の屋敷など武家屋敷があった赤坂ですが、明治以降はら戦前にかけては陸軍用地や実業家の屋敷などが置かれ、戦後は銀座と並ぶ高級な繁華街へと発展してきます。現在では赤坂サカスや東京ミッドタウンなどの大型複合施設やTBS本社などがあり、東京を代表する商業地の一つとして賑わいをみせています。

高見澤

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://azuma-geijutsu.com/mt/mt-tb.cgi/464

コメントする

2021年2月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28            

このアーカイブについて

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ